8月-ブリジストン美術館の30分

サンーヴィクトワール山とシャトーノワール
セザンヌ「サンーヴィクトワール山とシャトーノワール」


美術館の老舗といいますか、中学時代、東京で西洋画というと、ここと国立西洋美術館くらいしかなく、最初に一人で行ったのもここで、画集に載っているような「油絵」があって感動?
その後、多くの美術館ができ、続々と印象派や現代の傑作が全国の美術館に入ってきた。といってもそれがどのように日本人に影響与えたか、幸福な結果であったかはかは速断できないものがあります。どのような必用さからできたのか、そしてどのように伝えていくものであるのか。

ブリジストンに展示されている作、何回も見ているためか、これを集めた日本人の純粋な執念、オーラを感じます。日本人の体質にはいりこんでいるのでしょうか。まどわされずにもう一度作品と虚心にむかいあう必用もあるようです。
一階が入口ですが展示場の2階へ行きますと、ロダンその他小さいがすぐれた彫像、それを鑑賞する距離が欲しいところですが、デスピオが2点あるのはありがたいです、アンリエットという作はいつも引き付けられます。

女性の首で、ブロンズという材質、良く見るような、あたりまえの肖像彫刻なのですが、よくみるものとは違った次元にあると思えます。人間を見るより生々しい強さがあります、正面から見ますと、肉のホホをあまりにも厚く重たい感じ、立体の重たさのわりに顎というものが余りにも小さく、実際下から見ると小さい、(彫像の位置は少し上から眺めるようになっている)
またこの作を横から見ると首は意外とすっきり伸びていて、正面から見た、厚い、重いものを軽々と持ち上げていて、あ、彫像というものの秘密?はこんなところにあるのかな、いや、現実というものもこのようなものなのか、このような構造をもっているのかと思わせます。質実なモデルの性格というものも思い出すようにおそってきます。
上から見ると鯛焼きのような平べったいものが広がっている。そして彫像というものは斜めから見ることもでき、彫像と自分との距離というものはそこでこそいきてくるものですから、つくづく彫像というものは不思議なものです。

しかしやはり印象派の絵画がこの美術館の目玉でしょう、それらの背景のクリーム色の壁は真っ白の壁よりいいのですが、濃い色の壁にも印象派はあうようです。小品が多く、金の額がめだってしまいますが天井が低くゆったりした空間かんじられないのは残念。美術館は梁が見えてもかまわないのですが、ここの会社の人はちがっていて梁を隠すため、ますます天井を低くしています。
額も古いようですが、やはり作者の指定したもの、そのままの額はすくないようです。ルオーのピエロの顔、大きく描いた作は作者が選んだものだそうです。

セザンヌ、晩年の「サンーヴィクトワール山とシャトーノワール」はもちろん有名な作なのですが、どうやってみたらいいのか毎回混乱します
色が美しいものが額に収まっているだけではない、疑問符が額に納められ、それをぶち破ろうとするように動いているようです。
友達が「西洋人にこの作のすごさがわからず、売れずに残っていたのを日本人が安く買ったのでは、この作の色彩は唐三彩みたいで日本人の感覚にうけた。日本にこなければ、この作みなければセザンヌの凄さはわからんよ」そう強弁していたのを不思議に覚えています。しかしやはり疑問は抜けません、本当に日本人はこの作を理解して買ったたんだろうか、
緑と空が溶け合って位置がわからないですし、左、画面の外から山は見られているようであり、プーサンの絵のように山の向こうから巨人が鏡を持って出てくるように、鏡が空に散らばっているようにも思えます。君がみているのはただの鏡、いやなにものかの反射だよといっているような。この前見た時、黄色い建物の位置はもう少し下でもいいように思えたのですが今回はそうは思いませんでした。もし最後のこの山を描いた油彩であるならば、セザンヌの山への透明な挨拶であるような。
セザンヌも描く終えた時、成功作と思ったのか、失敗作と思ったのか、聞いてみたいところです。
目の前のものへ集中し,放心し、疑問もちながら美術館を歩いていく、また作者の執念がオフィス街にただよっているようでもあり、美術館に30分程寄ってそのことに気がつくのは悪いことではありません。(編集委員O)