「東日本大震災の記録2011.5.2~5」を作って 山本草介
この記録映像を撮影するおよそ一ヶ月前、震災直後の3月のこと。カメラを持って仙台に行ったことがあった。本当に短い滞在で人に言えるほどのものではないのだが、どうしても見ておきたくて知り合いの車に便乗した。
訪れた仙台市若林区は、被災したところとそうでない所が、南北を走る高速道路ひとつを挟んではっきり分かれていた。あまりにもはっきりと。周囲より小高い高速道路が津波を止めたのだ。一方は、何事もなかったような建て売り住宅が並ぶ新興住宅地。コンビニにたむろう中学生。犬を散歩するおじいさん。舗装されたばかりのアスファルト道路を走っていると、ここが本当に被災地なのかと拍子抜けするくらい平和な風景が広がっていた。ところが、高速道路を通り抜けようとすると、警察の検問が張られていて、ここから先には行くなと言う。
なぜ、と問う必要もなかった。
真っ暗なトンネル越しに見える風景は、すべてが茶色だった。
何もなかった。遠くの海までただヘドロが広がっていた。風がびゅーっと吹きすさび、ビニール袋が転がり、家かどうかもわからぬ塊の前に人がひとり立ち尽くしているのが見えるだけだった。
違う道を選べば、おそらく向こうへ行くことができたのだが、僕はここから先に進むことができなかった。何かしたくてとにかく行ってみたというような人間を受け入れる世界ではなかった。頑張れとか、ひとりじゃないとか、希望とか励ましの言葉を受け入れる世界ではなかった。風景がはっきりと拒絶していた。
情けないながらも、僕はそこからUターンして、避難所へ向った。知り合いが「震災ホームステイ」という被災者の避難先を紹介するホームページを立ち上げたので、インターネット環境がない人達にもこの情報を伝えようと避難所へチラシを配りに行ったのだ。しかし、被災者に直接渡すことはかなわず、市役所から来た代表者に託すしかない。食料や薬も持って行ったのだが、それも役場の受付に置いていくしかない。被災者と外部の人間を接触させないように、ものすごく気を遣っているように思えた。
僕らはせっかく持って行ったチラシが被災者の手元に届くかどうかも定かでなく、役所の仕事はこれだから!とその時は憤慨していたが、後から想像すると、道路一本を隔てた共有できない感情が町にあふれていたのだと思う。その共有できない心は、いろいろな摩擦を生んでしまうのかもしれない。だから「直接渡したいのですが」と懇願しても、お気持ちはとてもありがたいのですが・・・事情がありまして・・・と、役所の職員は目を合わせずに対応したのかもしれない・・・。こちらとあちらの世界。この二つの世界は、簡単に混じることはできないのだなあと、当たり前のことながら、なんだか無力感に囚われて帰途についた。帰ってからも、どうだった?と聞いてくる嫁さんにうまく説明できなくて、酒を飲んで酔っぱらってごまかしていた。被災地でカメラを回すということ。人の苦しみ悲しみを映像に記録するということ。僕は映像製作を生業にする人間のくせに何もできなかった。カメラを回さなくても直接、話を聞くことさえできなかった。あの暗いトンネルを前にして言葉を失い、下を向いて帰ってくるだけだった。
五月。友人の誘いを受け、もう一度東北へ向かうことになった。正直、またもや何もできないのだろうなあと思いながら「ここから福島県」という高速道路の標識を見つめていた。ただ、前回の旅と違ったのは、知り合いに会いに行くということ。以前、「桃栽培の盛んな福島県」と題した取材で訪れた福島県伊達市の桃農家の方がどんな状況にあるのか、どうしてもこの目で見たかったのだ。
今思えば、そこで聞いた話によって僕たちの映像の目指す方向が決まったのかもしれない。何十年もかけて育てた桃の木を放射性物質で汚染され、僕らの想像を絶する悔しさや怒りがあったはずなのに、その方は穏やかに語った。「原発問題の根源は、GDPの順位を争ったり、便利な生活を追い求めてしまう私達にあるのではないか?」
何にカメラを向けるべきなのか。悲惨な状況。きれい事では語れない極限に置かれた人間のいやらしさもあっただろうし、怒り、泣き叫ぶ人もいただろう。だけど、僕は福島の桃農家の方の穏やかな眼差しによって、あの暗いトンネルの向こうからこちら側を照らしてくれる光があることを教えられたのだ。結果、今回の記録は福島・宮城・岩手の被災地を巡りながら、そこかしこからこちら側へ放たれる光の束に勇気づけられていく、僕自身の記録にもなったのだ。
氏名:山本草介
肩書き:映画監督
筆者プロフィール:
06年劇映画『もんしぇん』でデビュー。以後、情熱大陸などテレビ番組を演出。最新作は映画「兎」。(2012年春)
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