光が降りてくる ―安藤榮作の平櫛田中賞受賞に寄せて―

岡村幸宣 (おかむら・ゆきのり)

鳳凰@ 平櫛田中美術館
鳳凰@ 平櫛田中美術館

 2017年3月、彫刻家の安藤榮作さんが、第28回平櫛田中賞を受賞した。

 その一報は、井原市立平櫛田中美術館から原爆の図丸木美術館に届いた。安藤さんの連絡先を知りたいという問い合わせだったのだが、結果的に、こちらが安藤さんに(非公式ながら)用件をお伝えすることになって、受話器を持つ少し手が震えた。数年前にも、安藤さんの連絡先を教えてほしいと平櫛田中賞の選考委員の一人から連絡があり、そのときは賞を逃していたから、今回も、万が一、早とちりだったらどうしようと、安藤さんの声を聞いた途端、不安になった。

 平櫛田中賞に選ばれたと、ぼくには聞こえたのですが、たぶん、聞き間違いではないと思うのですが……。

 掌に汗をかきながら、そんなあやふやな伝え方をしてしまった気がする。原発事故という、現在進行形の政治性をはらんだ問題に向き合う彫刻家が、この国の美術界で、果たして正当に評価してもらえるのか。自分の聴覚への信頼より、不安の方がはるかに勝っていたのだ。

 だから、確かに受賞が決まったとわかったときは、喜びよりも脱力感の方が大きかった。芸術も捨てたものではない、と何度も思った。

 

安藤さん説明@ 平櫛田中美術館
安藤さん説明@ 平櫛田中美術館

 初めて安藤さんに出会ったのは、2008年夏に埼玉県立近代美術館で開催された「丸木スマ展」だった。丸木位里の母親で、70歳をすぎて絵筆をとり、身近な生きものや里山の風景を描いた丸木スマの展覧会に、「スマの世界と共鳴する」現代の芸術家の作品が展示された。その三人の出品作家のひとりとして、安藤さんは選ばれていた。ナラやヒノキを手斧で刻んだ、彫り跡の生々しい、カブトムシやカエルの彫刻。無造作に、ごろりと床に転がした作品は、作り手である彫刻家の印象そのままに朴訥で、生命力がみなぎっていた。

 スマさんの絵には、すべての命がぎっしり詰まって、みんなが一律に存在している。ぼくたちが生きる世界そのものだ。それを忘れているのが今の人間の営みだけど、本当は、世界は全部つながっている。余白なんてないんだよ。

 安藤さんは、スマの絵についてそう話した。今思えば、彼の世界観を語っていたのかもしれないが、当時はそこまで理解していなかった。夏休みの少年のような視線でものを見て、作る人だと思った。東京から福島に移住して、自力でアトリエを建てたと聞き、いつか遊びに行ってみたいと考えていた。

 

 その願いは、かなわなかった。

 2011年5月、東日本大震災で福島県いわき市の海沿いのアトリエを失った彫刻家が、再起の個展を開くという新聞記事が目にとまった。写真には、安藤さんの姿が写っていた。震災当日、彼の一家は、たまたま外出していたために助かったが、飼っていた犬や、作品、彫刻の道具、生活に必要なものすべてを失ってしまった。その後は原発事故の影響で県外へ避難し、やはり彫刻家である妻の長谷川浩子さんの郷里の新潟県に身を寄せているという。

 個展初日に銀座のギャルリー志門へ駆けつけた。会場の床には、木仏にも、漂流物にも見える木片が散らばっていた。それは、どうしても、津波を連想してしまう光景だった。

 久しぶりに再会した安藤さんに、かける言葉は見つからなかった。

 奈良の明日香村が被災者を受け入れているから、家族で移住しようと思うんだ。もともと仏像に興味があったから、ちょうど良い機会になる。

 拍子抜けするほど淡々と、彫刻家は言った。すべてを失っても、生きてさえいれば、作品を作ることができる。これから安藤さんは、今までと違う世界を拓いていくのかもしれない。その世界を、見たいと思った。自分に、手伝えることはあるだろうか。金銭的な支援はできないけど、作品発表の場なら提供できる。本当は、初めて会ったときから、いつか丸木美術館で展覧会を、と思い続けていたような気もする。

 

 翌年の秋、安藤さんに会いに、奈良を訪ねた。明日香村は久しぶりだった。道を歩いていると、時間がさかのぼっていくような雰囲気は、あまり変わらない。山なみがやさしい。安藤さんは展覧会の依頼を快諾し、人はもう一度、宇宙的な自然のつながりの中に戻る必要があるね、と言った。

 その頃、安藤さんは「人間の強欲の証」である原発を鎮め、本来の自然の中へ解き放していけるようにと祈りを込めて、浜岡原発を望む砂丘や、大飯原発に続く雑木林、高速増殖炉もんじゅの見える砂浜などに足を運び、自作の小さな彫刻作品を人知れず埋めていた。

 鉄や石に比べて、木という素材の時間軸は短い。まして地中に埋められた木彫作品は、ほどなく形を失うだろう。残すための彫刻でなく、消えゆくための彫刻。しかし、考えようによっては、彫刻たちは安藤さんのいう「宇宙的な自然のつながりの中」に解き放たれて、放射性物質の「半減期」を遥かに超えるような、永遠性を確保したのかもしれない。津波によって流された作品も、同じように宇宙の粒子のひとつになって、私たちとともに存在し続けているのかもしれなかった。

 

 2013年春、丸木美術館の展覧会のタイトルは、「光のさなぎたち」に決まった。直前に銀座のa piece of space APS &ギャラリーカメリアで開催された個展をスケールアップさせたその展示は、福島原発事故を描いた縦4m横12mのドローイングの前に、高さ3mを超える6体の《光のさなぎ》と1体の《鳳凰》が屹立するというものだった。

 安藤さんは企画展示室にこもり、4日ほどかけてドローイングを描いた。ようやく完成が見えてきた頃、彼は、なんか、全然おどろおどろしい感じじゃないんだよね、と言い出した。もちろん、原発事故があったから福島を離れたわけで、怒りや憎しみの感情がないことはないはずだが、それ以上に、愛がなければ制作はできない、と繰り返し語った。原発に使われる物質も、もとは自然が育んだものだから、愛で包み、鎮め、自然に還したい。安藤さんの思いを知って、私はその優しさが、作家の批判精神を鈍らせるのではないかと心配になった。それでも、彼には、福島から引き離され、人と人のつながりが分断された者にしかわからない、希望や愛への渇望があるのかもしれない。

 生々しい手斧の彫り跡が残るヒノキを並べると、爽やかな香りが会場に広がった。

 

 僕らはどんな状況にあっても、光を生み出すサナギのようなもの。原発事故とその後の落胆だらけの社会の現状に、魂まで絡めとられてはいけない。今こそ、私たちの光で世界を満たすときだ。

 展覧会に、安藤さんはそんな言葉を寄せた。

 オープニングでは、安藤さんの友人である鈴木ヴァンさんの舞踏が披露され、安藤さんは斧を打ち下ろして木を削った。透明な音が展示室に響いた。斧は楽器だ、と思った。なぜ斧一本で作品を彫るのですか、という質問に、人間が最初に使った道具だからね、と彼が答えていたことを思い起こす。やがて安藤さんは、斧をジャンベ(西アフリカの伝統的な太鼓)に持ち替え、軽快なリズムを刻み始めた。毎週のように大阪の脱原発デモに参加して、ジャンベを叩いているとは聞いていた。太古に連なる魂の鼓動は、安藤さんにとって、社会の現状に対する抵抗であり、自己を解放し、自由を獲得するための道標でもあるのだろう。

 光が、降りてきたね。

 春先にもかかわらず汗まみれになった彫刻家は、パフォーマンスをそう振り返った。

 丸木美術館での展覧会が終わってからしばらくして、渋谷へ行くたびに、駅前のスクランブル交差点の大型ヴィジョンに、安藤さんの作品が映し出されるのを観た。2014年春の兵庫県芦屋市のギャラリーあしやシューレでの個展では、久しぶりに「光のさなぎたち」に再会し、安藤さんと対談を行った。2015年秋のギャルリー志門での個展では、600体を超える小さな「ヒトガタ」に囲まれながら、再び対談をした。イスラエル軍によるパレスチナ・ガザ攻撃の犠牲になった子どもたちを悼むつもりで彫りはじめたという「ヒトガタ」の彫刻は、いつしか「世界中の過酷な状況に置かれている子、原発事故のあった福島の子、平和な社会の陰で虐待に苦しんでいる子、そして今は大人になった僕ら自身の内で理不尽な我慢を強いられている子どもの魂」へ広がっていったという。

 「ヒトガタ」は、さらに数を増し、2016年春に開催された丸木美術館「Post 3.11 光明の種」展、同年秋の川崎市岡本太郎美術館「つくることは生きること・震災〈明日の神話〉展」でも展示された。その場所ごとに空間構成は大きく変化し、自在なインスタレーションであることも確認できた。そして3.11後に彫りはじめたという《鳳凰》像は、岡本太郎美術館の荘厳な展示で、ひとつの極点に達した。

 

丸木美術館_ 安藤栄作展_ 光のさなぎたち
丸木美術館_ 安藤栄作展_ 光のさなぎたち

 すべての命がぎっしり詰まって、みんなが一律に存在している。本当は、世界は全部つながっている。余白なんてないんだよ。

 初めて安藤さんと出会ったときの言葉を思い出す。「3.11」を経てからの彼の活躍は目覚ましい。しかし、彫刻家自身は「3.11」以前と以後で、何かが変わったのだろうか。心に熱い愛を抱き、身体で思考しながら、斧を振り下ろし、音を奏でて宇宙と語らう。その姿勢は、何も変わっていないようにも思える。社会の方が、彫刻家の世界へ少しだけ近づいたのか。

 2017年秋、井原市立平櫛田中美術館の受賞記念展を訪れて、あらためて安藤さんの彫刻を観なおす機会を得た。

 「3.11」以後の彫刻が大半で、以前のものはわずかしかない。最初に観た彫刻は、すべて自然に還ってしまった。それでも時間はつながっていて、現在の作品に流れ込んでいる。

 私はときどき、彼の展示に、宮澤賢治の農民芸術概論綱要の一節、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」を思い起こす。あるいは石牟礼道子の語る、他人の不幸を自分のことのように感じる「悶え神」。

 生き難い時代は続く。故郷を失った人たちが、帰還できる日は来るのかどうかもわからない。安藤さんの彫刻は、すべての命への祈りを抱えて、天につながり、地に根を下ろす。

 その粗削りな木塊の上に、光が降りてくる。

 


岡村幸宣 (おかむら・ゆきのり)

1974年東京都生まれ。東京造形大学造形学部比較造形専攻卒業、同研究生課程修了。2001年より原爆の図丸木美術館学芸員として勤務。著書に『非核芸術案内』(岩波ブックレット、2013年)、『《原爆の図》全国巡回』(新宿書房、2015年、第22回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『《原爆の図》のある美術館』(岩波ブックレット、2017年)、共著に『「はだしのゲン」を読む』(河出書房新社、2014年)、『3.11を心に刻んで 2014』(岩波ブックレット、2014年)、『山本作兵衛と炭鉱の記録』(平凡社、2014年)、『〈原爆〉を読む文化事典』(青弓社、2017年)など。