「美術運動」NO.145特集―企画2017年12月4日湯島:平和と労働センター会議室
対談 森下 泰輔 & 武居 利史
司会-今日は美術運動誌に関わってくださっていて、社会的な問題意識の高いお二人に参加していただいて、2017年を振り返って、また近年の美術の問題を語り合っていただこうとの趣向です。よろしくお願いします。森下さんは美術評論、作家、画廊経営者などの幅広い活動。武居さんは公立美術館の学芸員、美術評論、また若いころ画廊の仕事の経験などもある。司会進行の編集の私たちは作家ですが、菱さんは最近画廊経営をはじめ、またコレクターでもある。皆さん経験も豊富なので、お話も楽しく進めることができると思います。
(2018年3月に開催)
サンシャワー展の力強さとアジアの美術
SUNSHOWER 東南アジアの現代美術展 1980 年代から現代まで
森下-今年の森美術館と国立新美共同開催「サンシャワー」展はASEAN(東南アジア諸国連合)の現代美術展。あそこは人口形成も若いし活気がある。長く植民地化され人権が抑えられたが、そうしたASEANの問題にアートで取り組むのが早かった。その総覧がサンシャワー(注5)だったのかも。
ヨーロッパでヨーゼフ・ボイス(注6)やハラルド・ゼーマン(注7)らが存在したわけだけど、アンチテーゼとしての社会性のある美術があったが、今来ている社会性や共同作業やそういう観客を巻き込んで問題定義をしていくというASEANの美術はある意味幸せな現代美術とのリンクが最初からあった。サンシャワーなど逆に教えられたようなところがある。日本だと現政権は民主主義ということではろくな事をしない!衆院選もあったけど、「なんじゃこれ?」って感じだったし・・・。
サンシャワーはデモクラシー、民主主義化に即してストレートに制作していて現代美術の修辞法を用い表現するという幸せな経緯を感じる。
武居-私も同じような印象と共感を持った。何故東南アジアにそれができたのか?近代化が植民地支配や軍事独裁の下で遅れて、近代美術システムの未確立だったことが、逆に幸いしたのかもしれない。グローバルなものと直接つながって独自な美術の確立ができた。
木村(編集)-それらは日本の50年・60年代ではどうであった?
森下-一番大きな問題は、戦後の50年代から60年を経て70年まで確実に存在したであろう民主的美術の流れはいったい何であり、何を変え、何をもたらしたか? その問題は非常に大きい。それは・・・うん。
武居-東南アジアは冷戦期に鋭い対立があった地域。ベトナムはベトナム戦争があったり、インドネシア、韓国もそうだけど資本主義か社会主義かの対立があって。共産党が弾圧されて軍政が敷かれても、その後社会主義的な理念が社会に生きていて、それが社会的表現に展開して定着したような印象を持った。日本でも社会派のアートが活発だったのも紛争の時期だった。対立が見えにくくなってからは日本では表現が下火になっていったのでは?
森下-若手作家に聞くと「日本ではもともと政治的なアートは無かった」というけれども、そうした認識が全体にまかり通っているわけだが、実は日本の近代美術史は元来かなり政治的なものだった。戦前・戦後も政権に都合の悪いものはパージしてきた。美術界は実際は政治的な表現の場だった。アナーキーだったりリベラルだったりと、二科展などでも最初はそうだった。
木村(編集)-日本は本音と建前の使い分けがあるのでは?
村田(編集)-それは美術史だけじゃなくてさ~!日本は隠しちゃってる。
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(注5)「SUNSHOWER サンシャワー:東南アジアの現代美術展-1980年代から現在まで」
ASEAN設立50周年記念 (86組のアーチスト・グループの参加で我が国過去最大規模の東南アジア現代美術展)
2017年7月5日~10月23日 国立新美術館・森美術館
主催:国立新美術館/森美術館/国際交流基金アジアセンター
巡回先:福岡アジア美術館
- (注6)ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921年5月12日-1986年1月23日)は、ドイツの現代美術家・彫刻家・教育者・音楽家・社会活動家。 初期のフルクサスに関わり、パフォーマンスアートの数々を演じ名を馳せたほか、彫刻、インスタレーション、ドローイング、「社会彫刻」という概念を編み出す、「自由国際大学」を開設。「緑の党」の創立に参加。
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