武居利史(美術評論家)
近年、各地の公立美術館で、展示作品の撤去や改変といった「検閲」ともいうべき事件がたびたび起きている。表沙汰になったのは氷山の一角とみるべきで、組織内での「忖度」や「自主規制」によって、人目にふれる機会を奪われた作品も少なくないだろう。こうした出来事は、美術館に限らず、博物館や図書館、公民館のような他の社会教育施設でも起き、憲法が保障する「表現の自由」が尊重されなければならないはずの放送や出版など、あらゆる文化的な領域で発生している。しばしば、そこには政権与党、右翼・排外主義団体による政治的な圧力の存在が指摘される。だが、今日起きている問題の全部を眺めるなら、それだけでは説明しきれない奥行きと広がりがあるのも事実だ。本書は、そうした事象をできる限り、網羅的に取材し、「NG社会」ともいうべき日本社会の変容の本質に迫ろうとする。
さて、「NG社会」とは著者の造語であり、序章で次のように述べている。「本書は自由の阻害に関わる事例を総覧するかたちで集めて紹介し、俯瞰によって共通の原因とその背景を探ることを目的としている。領域によりさまざまにかたちを変えるこの現象は、検閲や忖度など限定的な言葉で表すことはできない。そこでNGという多義的な言葉で代用した。」本文の冒頭で、保育所の建設が反対された都会の例、海の家が抗議を受けて音楽イベントを自粛した海辺の例などを取り上げる。そこに垣間見えるのは、保育所や海の家を「騒音」と感じる新しい住民の存在だ。これまで当たり前のものとして地元住民も許容していたものを不快と感じる人たちが現れ、中止や禁止に追い込む。地域文化として親しまれてきた神社のお祭りさえ、近年では苦情の対象になるという。
そのようなケースは、政治家や役人が介入して引き起こす「検閲」とは、やや次元が異なる。とはいえ、実はそこに重要な共通性がある。「不快」と感じる人々の存在だ。自分の気に入らないものは、見たくない、聴きたくないという感情はだれしもある。だから、公共の場では、だれかが不快に感じるものは、見せない、聴かせないようにする動きが起きるのも、あながち理由のないことではない。かつて公共の場だからと互いに黙認してきたものが、公共の場だからこそ排除すべきだという主張に変わっているのだ。公的な施設や行事から、政治的なものや宗教的なものを除外する動きも同じである。九条の会やNPOなどの市民活動が、地域イベントから外されたり、行政の後援を取り消されたりする例が後を絶たない。「快/不快」という私的感覚、嫌いなものには触れたくない、好きなものに囲まれたいという私的欲求が、公共の場にも強く求められるようになった。異なる他者と出会う多様性をこそ認めるべき公共空間が、いつのまにか「快/不快」という個人の感覚的判断によって侵食されているのだ。
こうした公共性と趣味判断をめぐる今日的な社会現象について、著者はハンナ・アーレントやユルゲン・ハーバーマスらの公共性の議論を引用して考察する。日本で「公共」という言葉は、長らく「公共の福祉」のように私権を制限する概念と受けとめられ、私的なものの氾濫に対する公的秩序の維持を強調する権力的な意味で用いられてきた。だが、著者が前提とするのはまったく反対の意味の「公共」だ。ナチス・ドイツの過誤を哲学的に考察したアーレントは、その著作『人間の条件』(1958)で、「公共」とは「公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということ」であり、「世界そのもの」(私たちすべての者に共通するもの)だと説明する。逆に「私的」とは、「欠如している」「奪われている」状態で、「私生活に欠けているのは他人」だという。つまり「公共」とは、私が他者に対して現われ、他者が私に対して現われるような、複数性を前提とした空間を指す。そのような公共空間が民主政治には不可欠だが、ファシズムとはその公共空間が委縮し、画一性が支配して他者が消滅する「私的」な社会にほかならない。私生活の拡大による公共空間の縮小は、警戒すべき事態なのだ。 著者はいう。「NGの駆逐のために必要なこと。それは、数々の不正や不条理に対し、勇気をもって有害なものを投げつけること。言葉や表現、あるいは行動が含む有害なものを許容すること。そこから冷静に対話のための手段を探り、向き合うこと。」ハーバーマスらの用語を使えば「公共圏」をいかに作り出すかということになるが、そこで果たす表現者の役割は大きいといえるだろう。メディアの規制や表現の自由に関する書籍が、最近相次いで出版されているものの、本書のように公共空間が侵食される事象を幅広くとり、哲学的な考察を加えたものは他に見当たらない。表現活動に関わる人々にとって自らの行為がどのような社会的意義をもつか、あらためて考えさせてくれる本である。
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