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~渡辺皓司さん 描けなくなるまで描いていきたい~  「絵のおもしろさ、その可能性と自分の創作」

取材 小野章男/撮影 木村勝明

 渡辺皓司さんと編集部の対話を企画しました。日本美術会に長く所属、日本アンデパンダン展にも作、大作を発表してきた渡辺さん。民美でも長く講師の中心になって多くの人、画家を育てました。秋のある日に世田谷、桜上水にあるアトリエへ編集部二名が訪ね、いままでの自作や時代に対する思いを振り返ってもらいました。

■3.11と「変異地帯」

 私の近頃の日本アンデパンダン展に出品した作品、初めて3.11がテーマになっています。それまでの出品作は横長の大作「変異地帯」シリーズが続いていましたが、それに繋がりがあります。「変異地帯」シリーズを描くようになったきっかけは、だいぶ前になりますが川崎の公害です。芸大日本画を出て、同期の岡本博、酒井健とグループを作って発表していた時がありました。その日は彼らはこなかったかな、他の美大出身の何人かと一緒に川崎の工業街を描きに行った時のことです。スケッチをしていましたが運悪く雨が降ってきました。これはまずいとスケッチブックをしまおうとすると、画面にポツポツと灰色の雨がつきました。それだけ空が汚れていた。本当にびっくりしました。これが川崎の日常?これはひどい、この体験は何か形にしなければ、これは描かなければならない。環境問題に関心をもった最初で、私が20代の昔の話です。しかし本格的に作品に取り組みはじめたのはずっと先になりました。描こうと思ってすぐに描けるものではなかった。この川崎での体験が、初めて作品化したのは1996年の「記憶の残像」という2点の作品でした。川崎の「灰色の雨」と原爆投下後の「黒い雨」のダブルイメージでした。それが現在まで続く「変異地帯」シリーズの出発点となりました。それ等の作品には昆虫や鳥や魚が動いている、もともと生き物が好きですね。私は出身は群馬の渋川なんですが、故郷では中学、高校と昆虫学者になろうかと群馬の山で昆虫ばかり採っていた。それで作品に生き物が現れたのは自然の成り行きです。この世田谷、桜上水の家でもチャボを飼っていた。いつも土の中から昆虫の幼虫をくわえて食べていたのですが、ある時期からくわえることがない、虫がいなくなってしまった。

 現状ではその頃の地域的な公害とは違ってきて、もっと大きなスケールで気候変動、温暖化が激しく世界的に影響を与えている。その原因は温室効果ガスCO2の排出といわれ、台風、豪雨、旱魃、猛暑、山火事、ハリケーンと世界中で災害が起き、人命も失われている。それに加えて7年前の3.11があり、自然のエネルギーの巨大さを思い知らされました。街がそっくり消えてしまった恐ろしさ、現場を見たとき頭が真っ白になりました。

 その翌年、予定していた個展が銀座であり、その時は「変異地帯」も展示しました。ある日、展示していた「変異地帯」のうちの一点をじっと見ている人がいた。会場にいた私に、この作品は3.11を描いたものか尋ねてきました。私は「それ以前に描いたもので直接関係はありません」と答えた。しかしそれまでは3.11を描くのは至難だ、あんな未曾有の経験を簡単に作品にできるものではない、そのように思っていたから、その質問は私に不思議な力となったのです。そうかイメージには自分を超えた力もある。自分の作品にも少しでも危機のイメージを喚起させる力があるなら3.11を直接描いてみよう、描けるかもしれないとー。

地球変異(2014 年)
地球変異(2014 年)

■日本の絵画について

 先に触れた「記憶の残像」から現在まで、手探りで描いてきたのですが、イメージを広げてくれたのは、意外に思われるかもしれませんが日本の美術です。宗達や光琳の画面構成、平面的空間のダイナミックなリズム。また更に古く、雪舟の山水図の遠近感、近景から遠景へ画面上部に向けて積み重ねていくその動静、墨による深遠な空間感。これらは目に見えるもの、見えないもの総てを網羅した自然の時間を表しているかもしれない、人間も自然の一部なのだなと。余白は無限大の空間を感じさせます。絵巻も好きです。昔の日本の美術には草木や物象、生き物を描いたものに、自然への畏敬の念が深く感じられ、単純に人間中心ではない。その自然観は現代人こそ学ぶ必要があり、もっと自然を大事にしなければいけない。そしてそこに気がつかせてもらった。日本画を学んだのはその点でよかったと思っています。日本の昔のものには地平線が無い、限界が無い、空と地が接することがないなんて何だか宇宙的で面白いでしょう。

 日本と比べて中国は違います。日本でも故宮博物館の展覧会で展示された「清明上河図」は遠近感の質がヨーロッパに近いですね。まだ国交の無い時ですが、中国へ行ったおり複製の絵巻を買ってきました。よく見ていくと導入部の遠景から街中に入る、中心の橋と船の場面はダイナミックで群集は実にリアルで感銘を受けました。その時は文化大革命の半年ほど前、1965年です。「日中青年文化大交流」という様々な芸術ジャンルの若い人達で一ヶ月半も中国を回ったんです。

■東京と沖縄、自作について

 日本画出身の私が、何故油絵を描くのかよく聞かれますが、大学卒業後食うために何年かデザイン会社に勤めたことがあり、家で描く時間が足りない。日本画の絵具は準備が大変だが油絵具はチューブで簡単、どっちで描いても絵は絵じゃないか、と開きなおったのです。それからは大作には油彩、20号以下では油彩の他、和紙に水彩,岩彩を使用して描きました。和紙は水を吸い込むもの、その効果を油彩の時に試してみる。相互の交流とでも言いますか、自由にやっていますね。

 大学を出てから最初は東京のコンクリートづけの空間を赤い色で描いていました。山が身近に見える田舎に育ったので、人工的な空間を強く東京で感じました。街ゆく人は誰も知らない顔ばかりでその人達もお互いに知らない人同士。その中で新しいビルが毎日のように建ち、風景も変わってしまう忙しい大都会。一番興味を引かれたのが地下道の不思議な空間でした。中に商店街があっても無くても、その中を歩けば太陽が見えず感覚がおかしくなる、東西南北、ヒルかヨルかわからない。面白いですね。太陽が見えないだけで奇妙な感覚を味わった、まさに反自然の空間。この不思議空間と人間の関わりを描こう、何だかかえって楽しく描きましたねえ。この主題でペンと水彩を使った作品もありますが、現実の硬質な質感にペンがいいかなと。そうですね、最初の個展に赤い作品を並べ、「みづえ」に載ったのはその展覧会です。

 

コンクリート砂漠(1964年)
コンクリート砂漠(1964年)

 その一方で沖縄に通い始めました。最初の渡航はまだパスポートが必要な時で、1969年の10月、日本美術会企画の「沖縄全面返還のための版画展」を沖縄現地で開催するためでした。渡航申請書に渡航の目的が、「平和云々」と書いてあれば渡航に政治的な理由が疑われ、島へ入ることを拒否される米軍占領下。所属団体も無く、「一人旅」ただの旅行者で押し通してパス。一緒に行く予定の平和展の小口一郎さんは真面目に書類を書いたらしく、危険人物に見られてアウト、渡航出来ませんでした。開催は本島、宮古島、石垣島。本島は沖縄タイムズの大ホールで、着いた日に展示作業。宮古、石垣各島は現地有力者に協力をお願いするため島へ渡り、万事うまく進み版画展は成功することとなりました。

 当事沖縄には三人の日美会員がいました。そこで初めての沖縄訪問なので基地や戦跡、集団自決の場や燃える井戸水-等々案内され、戦中の日本軍のこと、戦後のアメリカ統治の実体など生々しく説明を受け、目で耳で教えられ「基地の島オキナワ」の現実を身をもって実感したのです。この版画展で行かなければ沖縄を描くことは無かったでしょうね。そしてこれが1972年の復帰後の沖縄取材に繋がった。そして1980年には小学館の絵本「くりまのまつりのはじまり」の絵を担当、出版したのです。

 沖縄の人たちの温かい人間味に触れると、踊りも音楽も素晴らしいし、すっかり沖縄ファンになりました。そして働き者の女性達に驚き、市場のおばあのおおらかさ、それを表そうと毎日スケッチに通いました。それ等は紙にコンテ、木炭、アクリルを使った作品になりました。視点を変えた2組の連作として。

 

 今振り返ってみると、日常生活の中で私は生活を脅かす不条理なものに反応して創作を刺戟されてきました。そのため取り組む時間も長期になってしまう。「東京」「沖縄」を描いた、今の「変異地帯」もそうですねえ。そのため他の題材を描くことがなくなります。静物や風景画等ほとんどありません。スケッチはするが作品化することなく、そこで終わりになる。今現在やっていることが先行する訳で、やはり関心の度合いに差があるからだとしか言いようがありません。

変異地帯・生きものたちの記録 (2004 年)
変異地帯・生きものたちの記録 (2004 年)

■芸術の素材、教育について

 絵画だけでなく、美術の他の素材のことですか?絵は変色があり、求めていた色が変わってしまい画面の質がぶれる。それに対して例えば彫刻の石では、破壊されない限り素材の本質は千年と残る。作家の意図がそのまま残るわけです。木彫も同じで、素材の石や木そのものにとても魅力を感じます。削りすぎても彫りすぎても元に戻らない、その緊張感はすごいでしょうね。それと比べると油彩は失敗しても、すぐ修正でき、安易になる危険がある。墨を使った場合は出来ないが、紙を取り替えればいい。石彫、木彫などは簡単には取替えられない。緊張度の差は大違いでしょう。

 どんどん時代は変わり世代も変わる。考え方や嗜好も変わるのは必然でしょう。昔の漫画ではディズニーも手塚治虫も絵はデッサンに裏付けられています。しかし、ある漫画家が、「絵を描くにデッサンは要らない、そのほうがおもしろいものが描ける」そう言ったらしい。コンピューターで何でも出来てしまう時代ですからね。デッサンといえば絵画の基本とされている。ちょっと教育のことを喋れば、民美にも人体デッサンの時間があり、モデルは人様々で個性の違いもある。人の形は描けても「人間」を描けない場合もある。観察の浅さ、深さがあるわけで、大変むつかしい課題です。民美が新橋にあった頃、生徒の中年女性が何時までたっても、ポーズをとっているモデルを描かない。何故描かないか聞くと、あのモデルは嫌いだ、描く気になれないといいます。なるほど、それではその嫌いな所を描いてみたらとアドバイスしました。彼女、判ったという顔をしてデッサンにとりかかった。描きあげたものは、どうモデルが嫌いだったかは判断が付かなかったけれど、彼女にとっては自分が「感じたこと」が描けた、いい体験になったのでは。ただ形だけではない、自分が対象から「何を感じ取るか」それが大事だと話をしました。物を観察する上での基本的なことなのでしょうが。宮本武蔵の「五輪の書」にも「見る」と「観る」の違いを説いていることをテレビで知りました。「見る」は見方が浅い、「観る」は深く相手の剣の動きを「感じ取る」だということ。「見」と「観」の文字からでも想像できますね。何かデッサンの話とよく似ていませんか。

 また沖縄にしても活字で知識を得ても現実のありのままの姿を観て感じることがなければリアルになりません。その点で復帰前の沖縄行きは貴重な体験で、「ぬちどう宝」の言葉は戦争を知っている者にとって心に滲みます。私は敗戦の時、旧制中学一年生でした。そして今まで描いてきて、描くことが好きで絵画によって育てられた面もあり、まだまだ描けなくなるまで描いていきたいですね。絵画の未来に先は無いなんてあちこちで耳にすることがあり、時代の変化の激しさを考えると、ひょっとすると「そうかなあ」とも思える。表現方法も出きっている。この不確定な時代を表現するには絵画では追いつかない。これまでの価値観で通じない現代の混沌、不確定の命題が「現代美術」ということなのかしら?それにしても絵画が絶滅危惧種になるような予感、これが本当になったらやはり寂しい。でも絵が好きだから描くのを止めたくないな。

取材 小野章男/撮影 木村勝明
取材 小野章男/撮影 木村勝明