稲葉真以(いなば・まい) 韓国美術研究
大同世-1
ひとを呼ぶ
ひとがひとを呼ぶ
この世の純潔な名前と名前が
おたがいに目であいさつする
勇気あるひととひとがお互いに
ほほずりあう
今日
ひとがひとを呼ぶ世だ
(詩:洪成潭、訳:徐勝)
韓国の民衆美術運動は、1980年代の民主化運動の高まりとともに展開した美術運動である。軍事独裁政権による抑圧的な状況が続く中、1980年5月に起こった光州民衆抗争をきっかけに民主化運動は本格化し、美術家たちは美術を武器に闘った。民衆美術運動の代表作家の一人として知られている洪成潭は、1980年代を通じて社会変革運動を主軸として美術運動を実践していったが、彼の民衆美術家としての原動力となったのもまた、光州民主化抗争であった。
朴正煕独裁政権時代に青春時代を送った洪成潭は、1974年、朝鮮大学の美術科に入学し、各種公募展や官展などに積極的に参加する一方で、進歩的文学者たちの文学論争や、民主化運動に触発され、友人らと地下サークルを結成し活動をはじめる。しかし肺結核を煩い、1977年から約2年間、闘病生活を送る。療養所では結核を病んだ自身の鬱屈や挫折感、抑圧的な暮らしを余儀なくされている民衆の姿を、表現主義的な方法で描いていた。しかし退院後は進歩的な文芸人たちが組織する「現代文化研究所」で活動しはじめ、ポスターやパンフレットなど、運動のための宣伝媒体の制作に従事することになる。そして1979年9月に同志たちと「光州自由美術人協議会」(光自協)を結成した。「光自協」の問題意識は、民主化闘争のために美術を社会の矛盾に対する挑戦の場にすることであった。特に、朝鮮時代の民衆の暮らしの中で親しまれていた民画や仏画のなどの民族様式の中に、現代の民衆の生と意識を内容として織り込んでいく作業を通じて、新たなリアリズム美術を開拓していった。
「光自協」が地下活動を本格化しつつあった1979年10月に朴正煕が狙撃されて死亡し、独裁者の死を契機に民主化への要求が高まると、「光自協」のメンバーたちはそれまで隠密に行なっていた活動を公開的に行なうことを決定し、第1回展覧会を1980年5月に計画した。しかし1980年5月18日、光州市内に突如戒厳軍が進入し、光州民衆抗争が勃発、彼らの計画は霧散してしまった。負傷者や死亡者が続出したその日、市内の美術教室で絵を教えていた洪成潭は、状況が伝わるやいなや、スケッチブックや紙を集め、スローガンを書いたプラカードを作り、それらをデモする人びとに配りはじめた。そして「現代文化研究所」のメンバーたちとともに「文化宣伝隊」を組織し、光州市の状況を市民に知らせるために奔走した。「文化宣伝隊」の活動は報道活動にも及び、彼らが発行し何千枚もばらまかれたガリ版刷りの『闘士回報』は、市民に統一した行動を呼びかけ、地下に闘争の指導部が存在することを確信させた。『闘士回報』や大字報(壁新聞)を通じて、光州市は混乱状態の中でも情報を得、秩序を保つことができたのである。
市民軍と戒厳軍は、10日間にわたる熾烈な闘いを繰り広げたが、5月27日の夜明け、2万名の戒厳軍による全羅道庁への一斉攻撃によって光州は制圧された。光州での虐殺は、言論統制によって韓国内では全く報道されず、他地域の人びとは光州で何が起こったのかを知る術がなかった。むしろ共産主義者の暴動だという政府側の報道だけが流布され、数々の流言が飛び交う中で、光州市民に対する暴虐の事実は隠蔽された。生き残った洪成潭は絶望的な敗北感に苦悩したが、これは、洪成譚だけでなく、多くの芸術家たちが共通して抱えた苦悩だった。光州抗争の直後、芸術家たちは沈滞期に陥ってしまった。社会変革に対する希望が、虐殺という結果に終わってしまい、既存の方法では民主化は成し遂げられないことを芸術家たちは痛感したのである。芸術家たちは深い自己反省とともに、光州民衆抗争の真相究明と民主化のための新たな方向を見出すための模索をはじめた。そのときに最も先進的な活動を行なったのが光州の美術家たちで、その先頭に立ったのが洪成潭だったのである。
1980年7月、「光自協」は「5月の鎮魂祭のための野外展」を開き、活動を再開するとともに、学習会や討論会を通じて論議を深めながら、作品を通じて光州の状況を広く知らせることを決定した。また民衆とのコミュニケーションを図る実践活動を行うことを計画し、そこで版画に注目した。1982年、洪成潭の版画カレンダー『12のマダン(広場)』(1983年度版)が出版された。『12のマダン』は版画運動の端緒となり、労働者や、民衆運動を志向する知識人たちが買い求めていった。さらに「光自協」が版画運動のために行なったもうひとつの重要な活動に、市民美術学校がある。版画講習を中心とした教育の重要性に気づいた「光自協」は、1983年の夏、市民美術学校を開設した。市民美術学校では、版画の技術の伝授よりも、受講生の意識化と制作における自主性の獲得に重点がおかれ、指導する講師はただ補助的な役割を担当するだけで、創作の主体はあくまでも民衆であった。
講座終了後に開かれた展覧会は市民たちの注目を集め、開催されるごとに多くの観覧者が展覧会場をおとずれた。また受講生達は、自分達が所属する運動組織でも版画でポスターや各種パンフレットなどを制作し、同僚にも版画を教えていったので、版画運動の裾野は民衆の活動の現場へと徐々に広まっていった。また洪成潭は光州だけでなく、他の地域でも市民美術学校の開設に尽力し、1983年からの約2年間で洪成潭が行なった指導は、全国各地で約60回にも及んだ。市民美術学校が拡散していった時期、洪成潭自身も積極的に版画制作を行ない、1980年代に彼が制作した版画の多くがこの時期に集中している。それらのほとんどは、連環画のようなストーリー性のあるものではなく、民主化運動組織の要求に応じて、機関誌の表紙や挿絵のために一枚ずつ制作されたものである。
洪成潭版画の最も代表的なものが、光州民衆抗争を描いた五月版画である。五月版画は「光州民衆文化研究所」の機関誌を通じて知られるようになった。当時、光州の惨劇を伝える写真を手に入れるのは不可能だったため、「光州民衆文化研究所」は機関誌に洪成潭の版画を掲載し、光州の真実を伝えることにしたのである。版画の内容は、機関紙の編集委員や美術グループのメンバーが集まって、論議しながら決定した。毎号数点ずつ掲載された五月版画は光州での出来事を可視化するのに寄与し、五月版画を求める人びとによって手から手へとわたっていった。当時、五月版画を所持するということは、光州抗争の痛みを共有することを意味していた。中でも、戒厳軍が撤退した後に生れた「光州コミューン」を描いた<大同世-1>(1984)は特に人気が高く、何千枚も摺られたため、原版を新たに彫ったほどであった。完璧な解放空間の中で人々が歓声をあげ、飯を分け合っている<大同世>。これを通じて洪成潭が伝えたものは、血を流し、苦しみを共有しながらも、生への希望と、「神明」(湧き上がる興趣という意味)を忘れなかった光州市民の姿だった。
1989年3月、「全南社会問題研究所」は、五月版画約70点の中から50点を選んで版画集を出版することを決定した。そして誕生したのが、五月光州民衆抗争版画集「夜明け」である。「夜明け」は印刷されたものではなく、洪成潭が50点の版画をそれぞれ50枚ずつ直接摺り、50冊の自家版として出版された。五月版画は光州民衆抗争を象徴するアイコンとなり、洪成潭は「五月の作家」として知られるようになる。また「夜明け」は韓国の民衆美術の代表作として、アジアを中心に世界各地で展示されていった。
洪成潭は常に民衆美術運動の中心にいた。約120名の美術家によって1985年11月に結成された全国組織「民族美術協議会」では初代運営委員長を務め、1988年7月には各地域の学生美術運動のグループや、現場での美術運動を展開していた小集団の代表とともに、光州民衆抗争を継承する美術事業を共同で行なうことを決定した。「民族民衆美術運動全国連合」(民美連)と命名された集団は、闘争現場の支援と連帯活動、労働現場での美術教育、祖国統一運動に力を注ぐとともに、1988年12月には<民族解放運動史>をコルゲクリム(巨大な掛絵)によって創作することを決定した。<民族解放運動史>は、東学農民戦争以来の朝鮮民衆の闘争の歴史を、11のテーマに分け、それぞれ美術集団が担当し、約200名の作家が参加した。1点の大きさが縦2.6m、幅7m、合わせると全長77mに及ぶ大作となった<民族解放運動史>は、1989年4月4日に展示会の開幕式がソウル大学で開かれ、委員長だった洪成潭は作品のスライドを北朝鮮の平壌で開かれる世界青年学生祝典に送ることを宣言した。6月15日、洪成潭はアメリカの民族学校を通じて<民族解放運動史>のスライドを送るとともに、抜け落ちている北朝鮮の現代史については、北朝鮮の作家が完成させてほしいと、祝典の参加者へのメッセージを託した。アメリカ経由で北朝鮮に送られたスライドは、北朝鮮の美術家たちによって1/2の大きさに再現され、祝典の国際美術展覧会で展示された。分断以来初めて南北美術交流が成就したのである。
一方韓国では、<民族解放運動史>の全国巡回展が行なわれたが、漢陽大学での展示に乱入した8000名あまりの警察が、コルゲクリムを含む展示作品を破壊し放火し、会場にいた群衆を無差別に連行、「民美蓮」では洪成潭を含む7名が拘束された。洪成潭はスパイ罪によって15年刑を宣告され、国際アムネスティ本部は、「世界の苦難を受ける良心囚3人」の一人として釈放運動を展開、最終的には1992年7月に満期出所した。
1989年のベルリンの壁崩壊以降、東欧諸国及びソ連の解体によって、思想的支柱を失った民衆美術運動は、急速にその勢いを失っていった。特に1994年の「民衆美術15年」展の開催は、民衆美術の終焉を決定付けたようにも見えた。しかし洪成潭の美術運動は終わらなかった。むしろ、1990年代以降の洪成潭は、問題意識を東アジア全体へと広げた作品を発表し、展覧会を通じて東アジアの連帯を呼びかけ続けている。日本でも1993年の富山妙子との二人展をはじめ、2012年の「洪成潭五月版画展 ひとがひとを呼ぶ」、2015年の「東アジアのヤスクニズム」展などが開催された。
五月版画の現在的意味を再確認するものとして、2013年に台北で開かれた「洪成潭版画」展があげられる。展覧会のシンポジウムでは、内在化してしまっている国家保安法(韓国)、戒厳令(台湾)、天皇制(日本)による目に見えない抑圧が指摘され、民主化以降の民主主義のあり方が提起された。そして、翌2014年の光州ビエンナーレ特別展における洪成潭と同志たちによって共同制作された作品の展示拒否はまさに、韓国における民主主義の危機を露呈することとなった。展示を拒否された<世越五月>は、世越号事件1の惨事を光州の虐殺とつなげ、民主主義の真価を問い直す内容であった。この作品に対する朴槿惠政権の露骨な弾圧は、芸術家による抵抗が国家権力にとって、大きな脅威であることを示すこととなった。
2016年秋からはじまった大統領弾劾を求めるキャンドルデモの結果、2017年3月31日に朴槿惠前大統領が拘束され、まさにその日、光州市立美術館で世越号三周忌追慕「洪成潭 世越五月」展が開幕し、<世越五月>が韓国ではじめて展示された。「絵は、現実に対してどのように作動するのか?どんな意味を持つのか?今、私にとって重要なことは、現場でどのような絵を持ち、立つべきなのかということである」という洪成潭の言葉は、光州の現場から今まで彼の芸術を貫いている。5月の光州の<大同世>が再び実現するまで、民衆美術家洪成潭の闘いは続く。
稲葉真以(いなば・まい)
1968年京都生れ。京都教育大学教育学部彫刻科卒業、国民大
学(韓国)芸術学部美術理論学科博士課程修了。光云大学副教
授。民衆美術を中心に日韓近現代美術を研究。
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