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「没後30年 鈴木賢二展 昭和の人と時代を描く  ―プロレタリア美術運動から戦後版画運動まで」を開催して

栃木県立美術館学芸員木村理恵子

「没後30 年 鈴木賢二展」ポスター
「没後30 年 鈴木賢二展」ポスター

版画家で彫刻家、漫画家、工芸家でもあった鈴木賢二(1906-1987)の名は今や無名に近いかもしれない。それでも、2018年1月13日から3月21日まで栃木県立美術館で開催した回顧展は思いのほか好評を得ることができ、朝日新聞や毎日新聞などの、さまざまな紙面や媒体に展評が掲載された。 

 来館者には、プロレタリア美術や版画運動への関心から、あるいは地縁から、もともと鈴木賢二をよく知っていた方々が多数あった。しかし、初めて目にする美術家ながら、ポスターのイメージのインパクトに魅了されたり、社会問題と密接にかかわった創作活動という現代的なテーマに惹かれたりして足を運んでくださった方々も少なくなかったようだ。遠方から駆けつけてくださった方もあり、企画者にとっては、うれしい反響であった。

 栃木県立美術館に勤務する学芸員として、鈴木賢二は地域ゆかりの美術家であり、所蔵作家でもあることから、この個展を企画する以前からある程度は親しんでいた。2000年には先輩同僚が「野に叫ぶ人々―北関東の戦後版画運動」展を企画し、その版画運動の中心的役割を果たした鈴木賢二を紹介したこともあった。ただし、これまでは、最も精力的な創作時期であった戦後の活躍に焦点が当てられることはあっても、その全貌が回顧されるような機会はほとんどなく、初期から晩年にいたる全体像についてはよく知らないことばかり、というのが準備を始める前の実情であった。

 

《挿絵原画「ワルイハワヌケ!」『労働戦線』1946 年12 月3 日刊》1946 年
《挿絵原画「ワルイハワヌケ!」『労働戦線』1946 年12 月3 日刊》1946 年

 

 そこで、ご遺族の全面的な協力を得て、後輩同僚とともに、まずは手元に大切に保管されてきた膨大な数の作品や資料をできる限り調査させていただくことから準備を始めた。版画についても初めて目にする作品が少なくなかったが、そのほかに彫刻や陶彫、工芸作品、切り絵作品など、益子での創作も含めてさまざまに残されていたことは、とても新鮮であった。また、旅先でのスケッチや素描もたくさん保管されており、そこには、1930年代の中国と朝鮮半島への旅行や1960年代の旧ソビエト連邦への旅行など、彼の地で出会った人々や情景が実にいきいきと描かれていた。その確かな描写力には目をみはるものがあり、戦前から漫画家としても名を馳せていたことを想起させた。つまり、この準備を始めるまで、鈴木賢二という美術家の仕事をわずかに断片的に知るのみであったことに、改めて気づかされたのである。

 したがって、展覧会を構成するにあたっては、鈴木賢二の版画家としての側面のみならず、広範に及ぶ多様な仕事のすべてを余すところなく紹介するのが一番良いだろうと考えた。もちろん、会場の制約から、現在残されている1,000点を優に超える作品すべてを展示することは不可能だが、なるべく全体が網羅されるような構成を試みた。結局、展覧会は、版画や素描、彫刻、陶彫、工芸など約350点の作品と資料を4部で構成することになった。それは、鈴木賢二の生涯を提示するとともに、昭和という激動の時代を一堂に示すことにもなった。

 鈴木賢二の回顧展を企画するに際して、一つ大きな課題があった。それは、戦時下の彫刻家としての活動をどのように位置づけるかという問題である。鈴木賢二の彫刻作品の作風は実におおらかで、柔らかな温かみの感じられる素晴らしいものである。たとえば、彫刻家の範としたと思われる日名子実三の精巧で隙のない作品群と比べてみれば、その違いは明らかである。細部には粗削りな部分も残るが、それも含めて鈴木賢二の良さであり魅力であろう。作品それぞれの柔和で穏やかな表情には、独特の深い味わいがある。とはいえ、この彫刻家としての活動こそが、後の陸軍美術協会の一員としての仕事につながっていった。すなわち、その制作の背景は、鈴木賢二の代名詞ともいえるプロレタリア美術運動や戦後の版画運動とは全く異なったものであった。いわば、時局の国策に沿った制作活動であった。

 なぜ、そのような活動に向かったのか。戦争を経験した多くの美術家たちがそうであったように、人々とともにある美術家の在り方をめざした一つの結果であったと考えている。それは、1930年代に栃木に帰り、地域のネットワークを大切にしながら活動した鈴木賢二が、名もなき人々、貧しい農村の人々とその子供たちといった大勢の社会的弱者の側に立ち続けるという選択をしたことの、ある意味で当然の帰結であった。戦後になって日本美術会が行った「美術界戦争責任に関する輿論調査用紙」に対して、鈴木賢二が「此の問題に付いて発言する資格を持たない」と断りつつも、「此の問題の究明は美術家の作家精神の自主性を確保復興せしめ、日本の美術家を世界人類の美術史に結合せしむる唯一つの道である」と苦渋の回答を寄せていることは、現在の我々に突きつけられた課題でもあろう。

 ともあれ、鈴木賢二の美術家としての活躍は多彩で多様、多岐に亘るという言葉に尽きる。決して短くはない人生における創作活動は質量ともに充実し、その思いに任せて制作された作品群は、現在においても実に魅力的なものばかりである。展覧会を終了した今も、その全貌と魅力に迫ることができたのかどうか、反芻しないわけではない。しかし、こうして多くの方々に注目いただけたことで、鈴木賢二研究の将来に向けて少しでも貢献できたのならば、展覧会企画者として本望である。

 

 

 日本美術会資料部より資料の提供を受けました。

 

記して感謝いたします。