軍服を描いた画家 ~井上肇~「井上肇展 ― 何処へ―」を観て

「何処へ」 P60 1979年
「何処へ」 P60 1979年

自由美術協会会員 小暮芳宏(こぐれよしひろ)

画家としての井上肇をあまり知らない。

 井上肇は中学3年間の美術教師であり、3年時の学級担任である。

 美術の授業の中で、「これは、ある展覧会で受賞した絵だ。」と軍服を描いた自身の作品を見せたことがある。「この人、絵描くんだ。」くらいの感想しかなく、画家・井上肇の認識は持ちえなかった。

 どんなに巧くても中味の無い絵は、評価しない。井上肇の生涯を通じての美術観であり、人間観だったのではないか。「この人は違う。」 後に井上の画業を知り、合点する。

 

 井上肇は、お世辞の言えない人だ。余計な事は言わない。

 井上肇は、厳しい人だ。自分には殊更厳しい。

 井上肇は、優しい人だ。弱い立場の者に特に優しい。

 井上肇は、ホントの喧嘩のできる人だ。徒手空拳で闘う。

 

 鎧で身を固め、武器を手にしなければ闘えない脆弱な権威主義者が大半を占める世にあって、井上肇の人間性は際立つ。

 

 1972年の日本アンデパンダン展に出品したF40号の『軍服』(州之内徹により『悪夢』改題『軍服』)。現在この絵は、「州之内コレクション」として宮城県美術館に収蔵されている。

 1973年秋、銀座現代画廊での初の個展「井上肇油絵展」の案内状、画廊主州之内徹の言葉に『軍服』を買った経緯が綴られている。「わたしがこの絵を買ったのは、そのときの会場でこの絵が水際立って見えたからである。作者のイメージの明晰さが水際立って見えた。それだけで私には十分だった。」

 また、『悪夢』改題『軍服』については、悪夢では絵の解説になり、軍隊経験の無い作者にはそのような実感は持てないのではないか。そこにあるのは古びた軍服だけだ。と。

 この州之内徹の言葉は、井上の絵の方向性を決定づけたといえる。 軍服を明快に描く。

 背景を排し軍服を克明に描く。それだけで絵になり、作者の想いが伝わる。

 肉体的にも精神的にも人間を破壊する凄惨な戦場体験の無い井上にとっては、静謐な画面の中の軍服に語ってもらうしかないのだ。

 以下、今回の回顧展での夫人井上道子氏の挨拶文より 井上肇は1932年生まれ、かろうじて軍服を着ないですんだ年代の人間です。 「だからこそ否応なく軍服を着せられたというか着なければならなかった人たちのことを思わなければならない。」と書き残し、「昭和を生きてきた人間の証言として画き続けなければならない。」と 生涯軍服に戦争の虚しさ、悲しさや理不尽を許さぬ意志等を静かに語らせ続けました。

日記にありました。

●ごわごわした軍服のしわひとつの中にも悲しみを表現

 したい、明るい色で。

●こういう絵を描かなくてすむ日が来ることを願いながら・・・・・

●いつの日か人間賛歌を描きたい。

2019年9月25日    井上道子

 

 誰しも間違う、過つ。完璧な人間などいない。誰だって痛い腹を探られたくない。

 思い上がった人間より、謙虚で誠実な人間こそ誇らしい。

 千駄木画廊での案内状の絵は私が選んだ。1979年作のP60『何処へ』。この絵は、井上宅の応接間に架けられていた。蜂の巣に被せられた軍帽。「井上肇といえば軍服」だが、私は純粋にこの絵が好きだ。 この帽子は、沖縄の浜辺に打ち捨てられていたのを、ある人が届けてくれたものだという。

 この絵の題名『何処へ』は「いずこへ」と読む。軍帽を被った弾倉のような蜂の巣。画家は、この帽子の持ち主の御霊の行方に思いを寄せたのか。

 井上のアトリエは、夫人の手により生前のまま整理整頓されている。そこには、パーキンソン病に冒されながらも描き続けられた一枚のキャンバスが、イーゼルに架けられている。

 改めて、画廊で井上の絵を前にして思うのは、この絵の前では、この人の前では、いい加減なことはできないと。自らを戒め、謙虚にならざるを得ない。

 美術教室に貼られた、農夫を描いたゴッホのデッサンと重なるように、井上肇は心に深く刻まれている。


井上肇 煥乎堂 個展 1991年
井上肇 煥乎堂 個展 1991年

井上肇

1932年群馬県生まれ

自由美術展 日本美術会アンデパンダン展 安井賞展

個展:現代画廊 紀伊國屋画廊 煥乎堂

収蔵:「軍服」(洲之内コレクション)宮城県美術館

2009年 歿 享年76歳