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【日美の前史探訪 】1932年、新ニッポン童画会のこと

安泰「モムジエンソク」コドモノクニ12-12(1933)
安泰「モムジエンソク」コドモノクニ12-12(1933)

松山しんさく(まつやまふみお研究会)

 2019年、4月だというのにうっすらと雪が降った安曇野ちひろ美術館を訪ねました。猫好きの娘と孫に「ねこの画家、安泰展」を見せるのと、1932年(昭和7年)3月設立の新ニッポン童画会の資料が目的でした。

 展示された「新ニッポン童畫會聲明」は、これまで数行の紹介は見ましたが、全文をみたのは初めてです。起草会員は主に絵雑誌「コドモノクニ」の新進青年画家たち(全員20代)で、この声明は前の世代(当時30代以上)への挑戦であり、格調の高いリアリズム童画論の提示でもあります。児童文学評論家の上笙一郎さんは、この貴重な文書を保存していた松山文雄から借りて写しをとり、歴史から消えないように活字に起こしていました。それでもこの道の専門家意外には目に触れない資料なので以下に概略を記します。

 「童畫が、子供を相手にした畫だという理由で、ハンディキャップのついた絵畫であった時代はそう古くはない。それは子供を大人の俯属物という固陋な一般的通念の然らしむところであった。その時代に続いて、童話・童畫時代があった。この時代の創意ある開拓を決して軽く評価するものではないが、一つのエポックには必ず限界がある。これを突破し新しい創造をなすもの、それが今日の時代を呼吸する活動的童畫家でなければならぬ。往々にして童畫は大人の空想的産物に堕す場合がある。現実と密着した健全で明るい強靱な生活感情を伸張することに努力し、大人の病的趣味や幻想的興味に基く、形や色や線の遊戯によって、児童の不健全な感情的萌芽を育てる誤った芸術的努力を排する。熱情のないマンネリズムを戒める。童畫は児童の眼を直接に養うものである。大人の受ける社会的現実の刺激から隔離することではなく、その積極的な要素を選択する眼を育て将来に期待し信頼する。生々とした、活動力に富んだ、児童の生活の積極性に合致した童畫を創り出すこと-これが新ニッポン童畫会の、創造的任務である。(日付記載なし)会員:越智はじめ、田中卓二、黒崎義介、安泰、安井小弥太、松山文雄、前島とも、福田新生」 この声明文はまず童画史とその批判から始まります。

 20世紀(明治33年)に入った頃、幼児・低学年少年少女向絵雑誌が次々刊行され、渡邊与平(1888生)、竹久夢二(1884生)の「抒情画」が登場します。それに続く童話・童画時代を代表するのは絵雑誌,「赤い鳥」(1918創刊)と「コドモノクニ」(1922創刊)です。1927年に日本童画家協会を結成する創成期を担った画家たちの生年と協会発足当時の年令、文雄による創意開拓の内容を列記すると、清水良雄(1891生、36才):都会的な感覚感情表現、武井武雄(1894生、33才):それまでになかったロマン的様式、初山滋(1897生、30才):叙情的な新生画、岡本帰一(1888生、39才):明瞭さ、子供の動きの写実性、、村山知義(1901生、26才):理知的構成主義、であり、協会創立時は村山を除けば30才代が中心で、新ニッポン童画世代の先生たちでもありました。後にこの時代の作風を「童心主義:-子供の世界だけが純真で貴いという考え」に括られ、それに対比して新ニッポン童画会の作風は「生活童画」と呼ばれています。(図参照) 声明の文章を起草したのは上笙一郎氏によれば文雄ではないかと推察されていますが、32年6月には検挙されているためかその頃の日記はなく、その真偽は分かりません。童画協会の画家たちはほとんど東京美術學校の出身で、志も技量も高い人達でしたが、協会が閉鎖的で新進画家が入り込めないという事情もあったようです。たまたま「コドモノクニ」の編集者が代わり、若手に窓を開いたことで、若手が結集しこの声明に至ったのでした。

 当時は、プロレタリア美術運動も盛んで、村山、松山、安などはそちらの活動もあり、官憲にも監視されていた時代です。新ニッポン童画会はそれとは独立していて、運動体というよりは、研究会中心の活動が主でした。

 この頃、ロシア絵本がナウカ社を通じて流入し、若手画家に大きな影響を与えました。この絵本は今見ても斬新です。文雄によれば、「イデオロギーの匂いもなく、とことん子供本位の親切な」絵本でした。前島、安らはその影響を強く受けた様子が作品に現れています。

 ロシア絵本の登場は、1917年の革命前後のロシア前衛の流れを引き継いだ斬新さ、革命後の児童教育の国家的計画のもとで時代の子供を描くリアリズム、自由奔放な創作の楽しさ、が日本だけでなく先進的なフランスにも衝撃を与えたようです。

 童心主義作家の時代にも、ミューシャ(1860-1939)などアールヌーボーの影響があったのではと、曲線の多いバタ臭い人物表現から推察します。

 新ニッポン童画会発足の前年(1931年9月)、満州事変が引き起こされ、いわゆる15年戦争時代になり、児童雑誌も次第に統制の下におかれます。会発足の三ヶ月後、プロレタリア文化聯盟(COP)への弾圧で主要メンバであった松山は検挙、以後3年間拘束、1940年には安も半年獄に送られ、その後児童文化は少国民文化協会に統合、戦時協力雑誌「ミクニノコドモ」に吸収されて、童画会も消滅していきました。

 ソ連でもスターリンによる32年の芸術活動統制以降、創作活動は制限されたことは日本と同様でしたが、閉塞状態が戦後も長く続いたことは残念なことでした。 ここに一部引用した新ニッポン童画会声明は、今日にも通じる普遍性がある、と思い紹介したしだいです。

 最後に資料文献を提供いただいた坂本淳子さん、安和子さん、上島史子さん(ちひろ美術館)に感謝いたします。

前島とも「散水車」コドモノクニ12-9(1933)
前島とも「散水車」コドモノクニ12-9(1933)

参考文献:

上笙一郎:‘二つのマニフェスト‘ 児童文化史の森、大空社刊1994所載/松山文雄:新しい漫画、童画、版画の描き方、飯塚書店1949/沼辺信一:子供の本が国境を越えるとき、幻のロシア絵本、1920-30年代展カタログ2004:芦屋美術館・東京都庭園美術館