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あいちトリエンナーレ2019 ー情の時代ー   表現の不自由展・その後  抽選に当たり、見ることが出来た。

吉岡 セイ(日本美術会会員)

 10月10日、あいトリ2019に友人と二人で行ってきた。目的は不自由展・その後を見るためだ。いや、見られるかもしれない、運がよければ、のためだ。

 私は2015東京練馬区のギャラリー古藤(ふるとう)での「表現の不自由展」を見損なっている。ここ何年も公立美術館等での展示拒否、撤去は目に余る。

 今回あいトリでは市民や多方面の尽力によって再開できたのだが、問題は山積み。まず、会期75日間中3日で中止、再開は最終日も間近の6日間のみ。「表現の不自由展」のその後は「見ることの不自由展」にまで事を拡大していた。

 抽選番号の印字されたリストバンド、モニターでの当落確認、会場観覧時間は40分、写真は撮っても誰かに発信してはいけない、等々。

 多くの人が落選する中、いつも籤など当たったことのない私は大当たり。友人に済まないと思いながら会場に入ろうとすると、またも足止め、探知ゲートをくぐったり。

 それでも会場に入り、少女像に対面、四方から見る。と、背後の床に腰の曲がった老女の白いシルエットを発見することができた。これは写真やニュースでは知りえなかったこと。

 大浦信行氏についてはコラージュに加え、氏自身の解説のもと、インパール作戦従軍看護婦19歳を題材にした映像を見られたのは収穫だった。

 氏は「私は天皇批判をしているのではなく、各人の内なる天皇(制?)に気付く」ことについて、自身の海外経験を踏まえて投げかけてくれた。歴史を記録や書物などで学習し、天皇と戦争について客観すると同時に、今必要なのはこの社会の自分の生活の様々な場面で気付かない訳にはいかない、単なる権威に留まらない、圧力としての権力、タブー化されつつある制度についてとことん考えることだと、改めて突き付けられた。

 最後に。現在、現代美術展は世界各地で、また日本各地でも活況を呈しているが、基本に表現する者と見る者の双方が「情と理と自由」を共有するフェスであってほしい。