木村勝明
2020年1月23日に亡くなられたことを電話で知る。美術運動NO.147に間に合うようなので、とり急ぎ、私個人の思い出を書いて偲びたい。1970年代に入会した私は、岡本さんが当時、事務局長の事務局に入った。岡本さんは事務的な集まりだけでなく、文化的な体験を重視されて、谷中の散策や築地に散策。三重の日本美術会の集まりにも同行させていただいた。その時も松坂市の朝田寺という蕭白の軸を持つ寺に、松坂市の教育委員会を通じてお寺に交渉していただいて、貴重な水墨画を見せていただく体験もさせてもらった。何度かの岡本画室への訪問も懐かしい記憶と共に思い出す。韓国の旅もあった。慶州の仏国寺と石窟庵に上って、紅葉の山を一緒に見続けた事。新美・篠崎さんらと一緒だったな~!
独自の躍動感
その独特な水墨淡彩の日本画は、他に見当たらない画風で、東洋画の伝統の上に独創性を保持したものだった。画壇における日本画が雲肌麻紙という厚手の和紙の上に岩絵の具を重ねて西洋画のようなボディーを獲得しようという傾向に対して、絵巻の躍動感と大和絵の美しさ、虚と実を巧みに融合させる日本の伝統絵画の優れた面を継承していたように感じていた。実際はこれらの躍動感を継承するのがアニメーション動画に在って、伝統的な絵画がホワイトキューブの美術館絵画となった事で、明治・大正あたりでそういう躍動感は失われたというのが、私の見方だが、どうなのかな? 実際に日本アンデパンダン展の日本画の若手(当時の)には受け継がれなかったし、美大の日本画でも同じような西洋画的な影響化の中、同じような傾向にあったと思われる。
岡本さんが画論としてそういう独自な課題を普遍化できたか?というと、どうもそれは無かったようだった。私もお話の中である程度聞いてはいたが、かなり独自なもので、その具体化は、あくまで和紙のドーサ引きをしない、滲む薄手の楮の和紙に描いて、それに裏打ちして、パネルに貼るという方法をとっておられた。作品で語るというスタンスだった。
高度成長期の抵抗を秘めた水墨
60年代の高度成長の時期に、地方からの美術行動と言うのか、地方の文化や風土が壊されていく状況への抵抗を示す絵画・日本画として出発して、移動展など「日本現実派」を渋谷草三郎らと展開し、その時の姿勢は晩年まで崩れなかった。というか、古典としての風格を保持されて、一回り大きくなった大木のような存在だった。
そして、近年版画の日本美術会の諸先輩が再評価の波が来ている中で、岡本博さんの独自性のある日本画も再評価の波が来るに違いないと直感している。
岡本博さん、安らかにお眠りください。
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