アライ=ヒロユキ 美術・文化社会批評
2015年に立ち上がった、公共の施設や空間で検閲や規制を受けた表現を集め展示する「表現の不自由展」。副題は「消されたものたち」で、図らずも不自由展そのものを指す言葉としても機能している。
第2回目の展示「表現の不自由展・その後」としてのあいちトリエンナーレ2019への参加では、あいちトリエンナーレ実行委員会により展示中止を強いられた。多くの報道や論評がなされたが、当事者の発言や視点に沿った論調は僅少の異常さがある。
表現の不自由展は、あいトリ以降、韓国・済州島での「EAPAP2019:島の歌」への参加、台湾・台北のMOCATaipei展など、海外の引き合いが多い。国内では、無視の「逆境」挽回のため意見発信の性格が強くなる。
2021年は東京で個展を予定しているが、プレ企画のトークイベントを2020年10月17日に開催した。題して[あいトリで隠されたもの~「対話」と「中立」の落とし穴]。
まず表現の不自由展実行委員会の共同代表の岡本有佳が、報道実態を紹介。2019年7月31日から10月15日までの、放送を含む新聞記事の横断検索による報道件数は約2485件。うち朝日新聞は244件だが、実行委員会の発言掲載がわずか21件、出品作家は2件。毎日新聞は総数236件のうち、同じく30件、12件。記事中の出現率は両紙とも1割前後だ。
基調講演は出品作家の嶋田美子で、不自由展が置かれた逆境を「相対主義」という言葉から読み解いた。日本で金科玉条のごとく唱えられる中立論が、虐げられたものを守るために機能せず、差別者による非道に荷担するきわめて政治的行為だとの厳しい批判だ。座談では東京展の実行委員の森下泰輔も加え、共同代表の筆者が司会のもと議論を深めた。
「その後」への激しい批判は、検閲問題を一般論の表現の自由論に収めず、日本の右傾化による歴史修正主義への批判、過去の戦争と植民地主義への告発の要素を濃く備えていたからだ。具体的には、天皇制、強制連行、日本軍「慰安婦」などの主題だ。日本の美術界、日本社会のタブーばかりで、そのため無視をこうむった。
「その後」はふたつの矛盾を明らかにした。表が検閲作品の主題なら、裏が不自由展実委の法廷闘争で明らかになった美術制度の宿痾だ。これは5つの「無」で例えられる。無慈悲、無理解、無尊重、無権利、無教養だ。
展示中止以降、不自由展実委は再開のための対話をあいトリ実委に呼びかけたが、大村秀章知事(あいトリ実委の会長)の多忙を理由に事実上の門前払いを受けた。会期時間切れの1か月前、やむなく名古屋地方裁判所にあいトリ実委を相手取って仮処分申請を行った。大村知事は当方らを対話相手とみなさず、一切無視を決め込んだ。この対応姿勢がまず無慈悲。
仮処分申請は美術界で評価する声はほぼ聞かれず、むしろ非難の対象となった。これが無理解。これは美術界の事なかれ主義からくる。作家やキュレーターが不当な不利益をこうむったとき、法廷闘争なり裁判に訴え、「原状回復」つまり権利回復に臨もうとする例はまずない。しかし権利回復で、司法の場を借りるのは民主社会で当然の行為であり、権利だ。
仮処分申請のあらましを説明しよう。仮処分とは、裁判所による保全命令の決定を行う民事法の処置で、早期の決着が必要な場合に行われる。本件では「展示会場入口に設置された高さ3メートルの壁の撤去」「『表現の不自由展・その後』の再開」を要求した。壁の撤去は弁護団の団長、中谷雄二の発案で、入場が物理的に不可能な形式的な展示再開という姑息な手段を封じるための妙案だ。
申し立ては「被保全権利」に基づくが、これはふたつにある。まず「人格的利益に基づく差し止め請求権」。表現者として有する、作品発表に関わる権利のこと。もうひとつが「作品出品契約に基づく展示請求権」。契約書に基づいて行使できる権利を指す。あいトリ実委は両方を否定した。 まず作家としての権利、差し止め請求権の否定は、大村知事が9月17日の定例記者会見で「『表現の不自由展・その後』の実行委員会の皆さんは作家ではありませんのでね」とコメントしたように、権利を持つ作家とみなさない姿勢に由来する。この理論補強に活用されたのが、第三者委員会と喧伝されながら実は大村弁護団の、あいちトリエンナーレ検証委員会。キュレーションの不備ないし不出来を理由に美術のアマチュア集団と決めつけた。これが無尊重だ。
契約上の権利、展示請求権については、業務委託契約のみの締結で、出品契約は締結してないのでこれに当たらないと主張。しかし出品依頼と了承が双方でなされており、詭弁でしかない。これは作家でなく委託業者とみなす権利無視の姿勢と相補関係にある。これが無権利だ。
本契約書は、弁護士、国際展ディレクター経験者(谷新)らに事前に相談し、協議を伴わない一方的な展示中止を下せないようにするなど、不利な点は可能な限り払拭した。最初に提示された契約書案は、ほかのあいトリ出品作家と共通で、権利が著しく不利なもの。全般的な作家の契約待遇の改善が望まれる。
仮処分は勝利に近い形の有利な条件で和解勧告を勝ち取った。あいトリ実委がこれを受諾し、幾らかの紆余曲折はあったが展示は再開された。
最後の無教養について述べよう。展示中止事件は、「美の定義」を権力の一方的都合で決めようとして失敗した側面がある。美術作家認定なりキュレーションの評価だ。この論点は、筆者が「作家性と展示空間の意味 キュレーションの問題を読み解く」と題する陳述書を作成し、裁判所に提出した。マルセル・デュシャン以降の現代美術史をたどりながら、制作概念の多様化による作家概念の変化と社会行動への拡張性を作品図版を多数挿入しつつ説いた。
デュシャンのレディメイドに見られるように、美術作品に「制作」は必要不可欠でなく、コンセプトが重要であること。またシミュレーショニズムの引用(アプロプリエーション)と発注芸術における制作概念の無効化。さらに、シャルジャ・ビエンナーレ14などを実例に、展示空間の構築や人間の集団行為が作品になり得ることを例証。ニコラ・ブリオーの「関係性の美学」にも言及しつつ、近年の国際美術展でのNPOやアクティヴィズム集団の作家としての参加実例もあげた。
「その後」は日本の政治的現状と矛盾の議論の場でもあろうとした。キュレーションへの審美的批判には、ヨーゼフ・ボイスの《直接民主主義組織のための100日間情報センター》をあげつつ、ハンナ・アーレントのいう政治的言論と活動の共生の「出現の空間」をめざしたとし、反証とした。あいトリ実委の美術定義は、国際美術展にあるまじき無教養だ。
あいトリに減額交付の文化庁補助金は日本博枠のもの。日本博は安倍晋三前首相肝いりのプロパガンダ的文化政策だが、これは安倍が津川雅彦と立ち上げた「日本の美」総合プロジェクト懇談会という極めて国家主義色の強い組織を母体とする。文化庁に「表現の自由」を訴えた大村秀章知事も足元では旧泰然たる美術概念で政治批評性を持つ作品を圧殺しようとした。美術概念の拡張は、美学的な自律性の進化だけでなく、広く公共性にも関わっている。
いま世界の美術シーンは、先鋭的であればあるほど、多くの社会矛盾と直面する。その同時代性のきしみは表現の不自由展も共有する。無視や怖れでなく、公平かつ仔細に事件を見つめるところから、現状の弊を打破する多くのものが得られるだろう。
アライ=ヒロユキ
美術・文化社会批評。1965 年生まれ。美術評論家連盟会員。
表現の不自由展実行委員会・共同代表。
著作に、『検閲という空気』『天皇アート論』
『宇宙戦艦ヤマトと70 年代ニッポン』(社会評論社)、
『オタ文化からサブカルへ』『ニューイングランド紀行』(繊研新聞社)、
『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』(岡本有佳との共編、岩波書店)、ほか。
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