木村勝明
■民美で知った薗田さん
この画家を知ったのは今から50年ほど前のことであった。日本美術会附属研究所の現在「民美」と呼称を変えた美術研究所の理論講座(毎週金曜)で林 文雄さんの連続講座「日本民主主義美術運動史」という中に薗田 猛の妙義山のデッサンが大きなスライド上映スクリーンに映されて、米軍基地撤去闘争の精神の反映があると評価されていたのを記憶に刻んだことによる。
■偶然の出会い
3年ほど前になるが、永井潔アトリエ館で、偶然この薗田
猛さんの長女・道子さん、次男・陽さんにお会いした。永井さんの作品の中でも代表作の二つ、「画室」1959年80.3×100.0㎝油彩と「みはるちゃん」1957年65.2×53.0㎝油彩のモデルが薗田猛と次女みはるちゃんなのであり、この時、みはるさんは亡くなられてまもないときだったので、とても印象に残る薗田さんご家族との出逢いだった。話題も盛り上がって、帰るときには、道子さんが近所の自宅から薗田猛さんも載っている「1930年代-青春の画家たち」創風社刊の本をプレゼントしてくださった。
このコロナ禍の自粛が始まる直前、薗田道子さんから電話があった。是非猛さんの作品を取材したいと私がお話したからだが、来ませんか?というお誘いだった。しかしコロナ禍に話題騒然の時だったので、これが収まったら是非!という話になった。実は道子さんは人生6度目の大手術を5月にされていた。11月になって長くは延ばせないという予感もあって、お電話し、永井潔アトリエ館で久々の再会は前より小さくなった印象を受けたのは、5月の大手術の結果だったのだろう。
■薗田 猛さんのプロフィール
薗田
猛さんは1911年東京市本郷区駒込に生まれ、大正の本郷区千駄木小学校卒業記念アルバムを見せていただいた。関東大震災、第二次大戦の空襲など経て、残されたアルバムだった。父、孝吉(東大文学部事務員)母、きんの三男。19歳に太平洋美術学校選科に入学、プロレタリア美術研究所の夏期講習に参加、後、研究所員となる。第二回プロレタリア美術展に出品。父の影響で本を乱読、俳句、詩もやる、多感な少年期を大正期の東京で育ち、社会的な矛盾と動乱期に学んだわけである。太平洋美術学校で佐藤俊介(松本俊介)石田新一らと近代芸術研究会を作り、同人誌『線』を発行。プロレタリア美術展や移動展などヤップ(プロレタリア美術家同盟)の東京支部執行委員、1934年にはヤップ解散。二月には治安維持法違反被疑として逮捕され、戸塚署に75日拘留。拷問。その後解剖学の解剖図など生活を考え東大や日本医大の先生についていろいろやられたらしいが詳しくは省略。戦争末期には海軍へ召集。
■戦後の怒涛の日々
日本美術会創立に参加。日本漫画映画株式会社に入社、労働組合運動に参加。自由美術家協会に参加。職場に美術サークルを作り、職場美術協会結成に協力。日本共産党に入党。1948年松本俊介死去、美術手帖八月号NO.9に「画家の良心」-松本俊介のことーを載せる。松本の遺作や遺構を整理し、遺作展や画集刊行の準備をする。1949年『松本俊介画集』美術出版社刊行。1952年練馬にて区内の諸団体に呼びかけ「原爆の図展」(丸木位里・俊)を開催、その後、練馬平和懇談会を結成し、事務局長となる。
さて戦後の暗黒と光芒の日々を細かく記載するゆとりが無いが、とにかく薗田猛さんは戦後の民主化運動や米軍基地反対運動なり、全身でその時代を生き抜いたと言えるだろう。この大戦で何百万人の累々たる死者ととともに、その同時代人として、何が彼をそうさせたのか?は、言うまでもない、闘ってその途中で亡くなられたと言えるのだろう。1962年安保闘争後に腸閉塞術後腸管癒着の為亡くなった51歳。
■ほんの部分的紹介
アトリエだった二階の部屋に残る作品の一部を見て、撮影できたが、暗くなり、デジカメも安いものなので、不充分さは免れない。部分的な紹介になる。今後もっとしっかりした展覧会なり、再評価をしてもらいたい画家である。残った作品の全部を見てよく感じ、考える必要がある。その初めの一歩となる紹介となれば!と思う。
■道子さんのお話から
意外に思ったのは、薗田道子さんの話を聞くと、薗田
猛は皆に愛されていて、人柄がよく、毎日友人お仲間の画家が集まったということだった。結婚された番場トメさんの実家や兄弟が何かと助けてくれたのだが、気持ちの負担をにおわせるようなことは無かった事。薗田さんがトメさんの実家(八王子)に挨拶に行ったとき、東京の画家がめずらしくて、一目見ようと村の娘らが集まったという話。麻生三郎が良く薗田家に逗留して、子らとも親しんだらしいが、その証拠に麻生三郎のデッサンがたくさん残っている事、など。みはるさん、陽さんは永井愛さんの小さな頃、よく永井家で遊んだ事。愛さんは好き嫌いは小さなころからはっきりしてたよ!など、病後の道子さんの話は、興味深く、楽しかったが、時間が足りなかった。又お元気なうちにお会いしたいと思った。
コメントをお書きください
佐原宏一 (日曜日, 31 3月 2024 18:51)
絵を描く事はある意味で時代を描いているのでしょう。