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書評◆笹木繁男 『藤田嗣治̶その実像と時代̶』上・下巻 (2019年私家版)

北野輝(美学・美術批評)

 笹木繁男氏(1931年~)は本誌の読者にもほとんど知られていないかもしれない。氏は、市中銀行を退職後35 年余にわたり、一貫して戦中・戦後の日本美術関係を中心に資料の収集・研究を続けてこられた異色の研究者である(現代美術資料センターを設立し主宰)。標記の著書は、氏が収集し実見した膨大な原資料に基づく引用や摘要と適宜加えられた考証・考察などによって編まれた、A4版・上下2巻で千ページに及ぶ大著である。それは著者自身も言うように藤田嗣治の作家論や作品論を目的としたものではなく、そのために不可欠な基礎資料集である。そのなかには藤田関係資料はもとより、戦後消失の危機の中から「救出」された戦時期美術の関係資料も網羅されている。今後の藤田研究にとって必見の労作である。 

 ここでは字数に限りがあるので、日本美術会にも関わりがある美術家の「戦争責任」問題に絞って「内田の藤田訪問」に触れることにする。「内田の藤田訪問」とは、戦後GHQからの求めにより美術界も「戦争犯罪」追求に大揺れしていた最中(1946 年6 月)、内田巌(日本美術会の初代書記長)がかねてから親しかった藤田嗣治宅を訪れたことを指す。だが問題はその時、内田がなぜ藤田を訪ねたのか、内田と藤田の間にどんな会話が交わされたかなど不明のまま、その場に居合せた君代夫人や後の藤田の発言をもとにした憶測や風説が半ば定説化されてきたことだ。たとえば、「内田[ ないし日本美術会、「左翼」など] による藤田追放説(彼は戦争責任の追求を受け日本を脱出した…)」、「藤田スケープゴート説(彼一人に戦争責任を負わせようとされた…)」など。このような言説に疑問を抱いた笹木氏は、藤田から内田に送られた新発見の書簡(21 通)をも援用して、それらがみな事実に反することを検証したのである。これにより曖昧なまま放置され生き残ってきた風説・謬説はもはやきっぱり捨てられるべきことが明らかになった。

 笹木氏によるこのような検証は、さまざまな錯誤や虚構にまとわれた藤田像を正し「実像」に迫る上で重要なばかりでない。また設立当初から美術家の戦争責任問題に真摯に取り組んでいた日本美術会に着せられた「濡れ衣」を晴らすことになるばかりでもない。むしろ真の重要性は、戦後日本の美術界が、侵略戦争への協力を合理化し戦争責任を自省することなく逃れた藤田嗣治らを不作為に擁護し続けてきたこと、またそのことによってみずからも未決の戦争責任を「戦後責任」として負い、その解決をはかるのを怠ってきたことを、炙り出していることであろう。

 念のため付言すると、笹木氏は戦争責任の検討をゆるがせにしていないが、戦争に協力した作家たちを一面的に批判しているのではない。氏は、戦時下と戦後を通して彼らの身の処し方を追跡することにより、誤った戦争責任の認識を正しているのだ。それは何らかの形で戦争に協力した作家たち、瀧口修造らの資料を丹念に掘り起こした検証行為が示している。