宮下美砂子(みやしたみさこ) 絵本研究者
「日本童画会」の結成
終戦から1 年に満たない1946 年7 月7 日、目白の自由学園講堂で、新しい童画のための運動団体として創立された「日本童画会」の総会が開かれた。この童画団体の創立メンバーとして事務局長の役割を果たしたのが、プロレタリア画家で童画家としても知られる松山文雄であった。松山はこの会を創立した目的について、以下のように説明している。
「「日本童画会」は戦前につくられた職業的な團體や、親睦的なグループとちがって、民主々義的思想によつてつらぬかれた趣意と綱領とを鮮明にかかげ、新しい童畫のための運動團體として出發しました。」(1)
会の創立に先立つ4月10 日には、戦後初めての衆議院選挙が実施され、女性にも参政権が認められるようになった。また、11 月には男女平等を掲げた「日本国憲法」が公布されるなど、この時期、女性の権利拡大の気運がこれまでになく高まっていた。「日本童画会」でも、戦前とは一線を画する「民主々義的」な運営が目指された。女性童画家が男性童画家と同等に活躍できる環境についても、しかるべき改革がなされたのだろうか。
「日本童画会」結成の経緯について記載された松山文雄の『赤白黒』(造形社、1969 年)によると、まずは松山本人と斎藤長三、大沢昌助、鳥居敏文、中尾彰が東京の出版社で集まり、そこに疎開中だった初山滋、戸樫寅平、村山知義、赤松俊子、脇田和、武井武雄、川上四郎、安泰、深沢紅子、木俣武が加わり、発起人会が結成されたようだ。発起人15 人のなかで女性は赤松と深沢のわずか2 人のみであり、会の創設にあたり中心的な役割を果たしたのは、ほぼ男性であったと言わざるを得ない。
また、創立から5 年が経過した同会の作品展を取材した『週刊朝日』(「今日の群像 「日本童画会」」1951 年11 月11 日号)の記事に掲載された写真【図1】をみると、メンバーの男女比は15:2となっている。会員全員が写っているわけではないが、依然として数の上の不均衡が温存されていた状況が推察される。穿った見かたかもしれないが、列の中央に並ぶいわさきちひろ(右)と藤田桜(左)の女性2人は、まるで「紅一点」ならぬ「紅二点」として扱われているようである。
*本当のところは「富」だと思われます。
戦前の童画界における女性画家
●「オンナノクニ」といわれた『コドモノクニ』
そもそも「童画」とは、児童出版美術全体のことを指し、1925 年5月に東京・銀座の資生堂画廊にて開催された「武井武雄童画展」を機に生まれた言葉とされる。当時、童画は童謡や童話の添え物としてみなされてきたが、同展によって童画という独立した絵画ジャンルが次第に認識されるようになった。大正期に入ると、第一次世界大戦による経済的好況を基盤に、近代的価値観に立つ児童文化運動が興り、子ども向けの文芸雑誌や絵雑誌が相次いで創刊された(2)。
なかでも、東京社から1922 年に創刊された『コドモノクニ』は気鋭の童画家が手がけた、芸術性の高い作品を美しい印刷で提供し、子どもたちを夢中にさせた。この『コドモノクニ』に作品を提供した画家のなかには、久富矢須枝、辻妙子、遠山陽子、坂井安子、川島はるよ、前島とも、藤川栄子、深沢紅子、三岸節子、赤松俊子、岩岡とも枝といった複数の女性が確認できる。かつて『コドモノクニ』の編集者であった奈街三郎は、創刊時の編集者・和田古江が「たいへんなフェニミニスト」であり、「女の絵描きだの女の作家ばかりを使うので、「オンナノクニ」と言われたんです」と戦後に語っている(3)。
女性の起用が多いことで評判であった『コドモノクニ』ではあったが、制作のブレーンとなる重要なポジションは、主に男性の作り手によって占められていたと指摘できる。そのことを端的に示す興味深い連載作品が残されているので紹介したい。
『コドモノクニ』では1930 年代初頭、同誌の画家として活躍していた松山文雄によって、いわゆる「作家探訪」のような読み物が連載されていた。松山自身が『コドモノクニ』の執筆陣や画家(連載中では「先生」と記される)の自宅を訪れ、家での「先生」の姿や家族との様子を絵と文で読者の子どもたちに伝えるという企画であった。1931 年5 月号では画家の深沢省三が取り上げられ、省三本人、妻の紅子と子どもたちが火鉢を囲み、一家団らんする様子が描かれている【図2】。ここで省三と共に描かれた妻の深沢紅子は、『子供之友』(婦人之友社)や児童書の装丁などで活躍しており、当時すでに二科展入選という実績をもつ画家であった。この「作家探訪」が掲載された後ではあるが、『コドモノクニ』にも絵を提供している。しかし、ここでの紅子は三人の子どもたちの面倒をみる「おかあさんの紅子夫人」として紹介されるに留まっており、画家であることは一切触れられていない。「男性=仕事/ 女性=家事・育児」という近代化に伴って浸透した性別役割を反映した家族像は、当時の作り手側・読み手側の双方において、特に違和感のないものとして受け流されたと考えられる。ただし、松山の描いた紅子像は、夫・省三や子どもたちの中で誰とも視線を合わせず、まるで何かに苛立っているかのような表情をしているようにも見える。
調査の結果、全17 回の連載のなかで、女性で「先生」として紹介されているのは画家の「岩岡とも枝先生」と、「神谷萬吉先生」の回で神谷宅を訪れた女性編集者の計2 人のみであった。女性が男性と対等に仕事を得て公平に評価されていたとは到底いえない状況である。それでも当時は「オンナノクニ」と揶揄されるほど『コドモノクニ』が、特別視されていたというエピソードは、戦前の女性童画家がきわめてジェンダー不均衡な状況で仕事をしていたことを伝えるものである。
●「妻」「母」としての役割を期待される女性
夫婦そろって童画や児童文学の制作に携わるというケースは、実は珍しくない。深沢省三・紅子夫妻以外にも、松山文雄・前島とも夫妻、村山知義・壽子(児童文学作家)夫妻などが例として挙げられる。そして、妻の側となった女性画家や女性作家は、そのほとんどが仕事と生活の両立に奔走した。
『コドモノクニ』では「おかあさん」としてしか紹介されなかった深沢紅子の場合は、1923 年に結婚したのち「しばらく絵の描けない日常の忙しさ」があったという。そうしたなか、自宅を訪ねてきた師匠・岡田三郎助の「描いていますか」という一言によって「身の引き締まる思い」がし、作品制作を再開したという(4)。その作品は先述したとおり、1925 年に女性として初めてとなる二科展入選という快挙を成し遂げている。
前島ともは、1930 年代初頭から『赤い鳥』や『コドモノクニ』を中心にコンスタントに仕事をこなし、童画家としてのキャリアを積み重ねていた。しかし、結婚後の彼女の制作環境は非常に不安定なものだったといえよう。夫の松山文雄は共産党活動への関わりを理由に、常に追われる身であった。逮捕される危険と日々隣り合わせの夫を支えつつ、子どもを育てながら戦時下の生活を切り盛りするだけでも大変なことである。そのうえ、童画の仕事までこなす苦労は測り知れない。夫の松山自身の回想によると、前島ともは結婚前から「私のわがままな注文をかなえてくれる」存在であり、刑務所に差し入れをするなど献身的なサポートをしていたという(5)。
夫・知義の童画とコラボレーションした前衛的な作品によって1920 ~ 30 年代に際立った活躍をみせた村山壽子も例外ではなかった。自身は肺結核を患うなか、やはり共産党活動に関与していた夫・知義がくり返し逮捕されるという困難な状況におかれた。夫への差し入れや手紙の執筆、留守宅の切り盛りに忙殺され、1940 年以降筆を絶っている(6)。終戦間近になると、身の危険を感じた知義は壽子と子ども(村山亜土)を残して単身朝鮮へと亡命する。空襲によって壽子の肺結核は悪化し、ほぼ寝たきりとなった。終戦後も病状は好転せず、本格的な創作活動に復帰できないまま1946 年に死去している。
他に比較すると自由度の高い画家や作家という職業であっても、結婚によって女性側がこれまで築いてきたキャリアを犠牲にするという状況は同じであったようだ。既婚女性は、社会的自立や自己実現よりも、夫を支えることや家事・育児を優先するべきだという価値観は、現代においてもいまだ根強い。
児童文化研究者の上笙一郎は、明治期から終戦までの約80年間において名を残した女性童画家は、中江玉桂、渡辺文子、岩岡とも枝、川島はるよ、前島とも、深沢紅子、深谷美保子の7 人程度しかおらず、しかもその半数は結婚その他により中途で画筆を放してしまい、童画家としての円熟、大成に到達しなかったと指摘する(2)。
●戦時下の童画界
戦況が悪化すると、子ども向け出版物のなかでも戦意を高揚することや戦争を美化することが一層強要されるようなった。それに伴い、童画家たちの多くが戦地や植民地の様子、兵士、戦闘機、戦艦、そして「聖戦」を支える銃後の生活を正当化して描いた。松山文雄は、当時の童画の仕事について「戦争協力への強制の下では、心にもない絵をかかさされ」「それをこばむとたちまち口のひあがる境地においこまれるほかがなかった」と、童画家たちが生活の糧を得るために、妥協せざるを得なかった状況を戦後に振り返っている(5)。不本意な制限を強いられたとしても、当時の松山にとっては童画の仕事が貴重な収入源であった。自らの名前が当局によって絵雑誌から抹消されるという事態をうけ、妻の前島ともの名前を使っての仕事を試みたこともあったという(5)。
戦時中は男性不在の「穴」を埋めるために、女性たちが多方面での労働に駆り出されたが、童画界においてはそうした現象が特に確認できない。茂田井武のように徴兵されて戦地へと赴くことになった場合もあったが、戦前から活躍していた著名な男性童画家たちの生年を見ると、ほとんどが1880 年代末から1890 年代前半で占められており、彼らの多くが徴兵を免れたと考えられる。戦前・戦中の童画の世界ではあらゆる面からみて、女性画家の進出が阻まれていたということは一つの事実として指摘できるだろう。
1941 年には戦時体制の強化のもと、芸術としての童画の発展を目指して結成された「日本童画家協会」(1927 年~)や、リアリズムを重視した新しい童画を目指す「新ニッポン童画会」(1932 年~)も消滅した。1944 年には『コドモノクニ』も終刊を迎える。童画家たちはより厳しい統制下におかれ、多くが疎開生活を経験することとなった。
戦後における変化
●男女平等は実現したか
戦争が終結し、戦前に比較すると飛躍的に女性の地位は向上した。しかし、女性画家たちが男性同様に十分に活躍できるようになったかというと、冒頭でも述べた通り残念ながらそうではなかったようだ。焼野原と化した戦後の日本における食料難、物資不足は戦前より悲惨であったともいわれる。性別を問わずあらゆるジャンルの画家たちがギリギリの生活を維持するため、仕事を獲得する必要に迫られていた。そうしたなかで、家事や育児の役割を全面的に期待される女性のキャリアが犠牲となったことは想像に難くない。
また、これは戦後に限ったことではないが、収入を得るための手立てとして、本業が「純粋芸術」分野の画家たちもこぞって童画ジャンルに進出した。戦後の児童出版物では、桂ゆき、桜井悦、富山妙子、朝倉摂、秋野不矩、堀文子など、洋画、日本画にかかわらず、戦前から一定の評価を得ていた多くの女性画家が子ども向け雑誌や絵本、児童文学の挿絵の仕事に関わっていることが確認できる。例えば、炭坑シリーズで1950 年代後半から注目を集めた富山妙子は、戦後間もなく二度目の離婚を経験し、シングルマザーとして2 人の子どもを抱え、生活に窮していた。そのような境遇を救った仕事の一つに、童画があったことを自著のなかで語っている(7)。
1949 年の『婦人民主新聞』の記事「秋美術の嘆き 女流画家を訪ねて」(9 月10 日付)では、女中をしながら制作活動に励む尾崎ふさなど、3 人の女性画家たちの困窮した状況が取材されている。記事には、「挿絵、カット、看板かきのアルバイト」をしても、「その日の暮らしに精一杯で制作活動が続けられない人がいる」とある。生活のためには仕事を選んでいられないという厳しい境遇におかれた画家たちが多数いたなか、童画の仕事は比較的「良質」な仕事であったと考えられる。このような状況下で、無名で若手の女性童画家が絵筆で自立することは難しかっただろう。さらには男性画家と同等に、家族を養えるほどの仕事を得ることは困難を極めたと考えられる。
●戦後の「既婚女性童画家」の実態
戦中は夫・松山文雄のサポートに尽力した前島ともの戦後について、ご子息の松山晋作氏に伺ったエピソードを紹介したい。
「(母・前島ともは)終戦後は4人の子育てで作家活動は出来なくなりました。当時、母の甥が復員してきて我が家に引き取り同居。父に弟子入りした女性、のちに童画家となる松本まち子さんが、家の手伝いをしていました。父は外出が多く、1950 年のレッドパージでは、再び地下活動を余儀なくされ不在の状態がありました。この辺りは父の日記もありません。『婦人民主新聞』が発行されてからは、挿絵などの仕事があったのかもしれませんが、よくわかりません。「日本童画会」展などは出品したことはなかったと思います。(中略)戦前の『コドモノクニ』のような創作場所がなくなってしまいました。」
暗黒の時代が終わり、民主的で平和な社会の実現に向け、かつてない熱気を帯びた児童文化の世界であった。『赤とんぼ』『銀河』『子どもの広場』など、「良心的児童雑誌」も相次いで創刊された。そうした一冊であった『こどものはた』(新世界社)には、【図3】のように前島ともの描いた作品も複数確認できる。しかし、1950 年代になると「逆コース」によって戦中と似た状況が再現されるようになり、「良心的児童雑誌」が相次いで姿を消した。戦時期に自由な創作を制限された経験をもつ作家や画家たちは、今度こそ子どものために良質な文化を提供しようと志を新たにしていた。その矢先に、再び発表の場が次々に奪われるという事態は、絶望に近い出来事であったと想像できる。
さらに、前島とものように既婚の女性童画家の多くは家事・育児に加え、自らの「使命」や仕事に猛進する夫のサポートという役割を、戦前同様に当然のごとく担うことになっただろう。自身の創作にあてる時間と場所を確保できないどころか、創作活動を続けるための意欲の維持すら困難だったことが推察される。
既婚の女性画家は、夫の収入があることでシングルマザーや独身の女性画家よりも、経済的な面ではいくらか安定していたかもしれない。しかし、精神的・時間的・空間的な自由については、多くの制限があったに違いない。それは、画家というクリエイティビティが要求される職業を継続するにあたり、まさに「命取り」だったといえるだろう。
前島ともは、その後も「女流日本画創作会」などに日本画を出品し続けていたようだが(8)、「良心的児童雑誌」の衰退と時期を同じくするかのように、童画家として広く子どもたちに親しまれるような活躍はみられなくなった。
●「母親からの支持」を集め躍進した童画家
そうしたなか、新しい方向性を打ち出すことで童画の世界で人気と地位を確立する女性画家が出現しはじめる。その一人が、筆者が長年研究対象としてきたいわさきちひろである(9)。
いわさきは戦前から画家になりたいという願望を持っていたが、親の反対によってその夢は閉ざされた。1946 年、日本共産党に入党した後、家出同然で上京し、新橋に開校された共産党宣伝部芸術学校に入学している。同校では、松山文雄も指導陣として名を連ねており、諷刺漫画の描き方などを指導していたとみられる。上京の翌年には「日本童画会」にも入会している。同会は、プロレタリア童画や生活童画の流れをくむ童画家が数多く参加しており、戦後のいわさきちひろの作品制作において重要な活動拠点の一つであった。また、プロレタリア美術運動の継承でもある「日本美術会」「前衛美術会」といった美術団体にも所属し、1950 年代にかけては展覧会に出品するための油彩作品に精力的に取り組んでいた。
「日本童画会」は、日本共産党の文化政策と深い関わりをもつ「日本民主主義文化連盟( 文連)」の加盟団体であり、「日本美術会」の姉妹団体という位置付けでもあった。今でこそ絵本画家や童画家として認知され、人気の高いいわさきであるが、画家を目指して上京した当初は、童画以上に「純粋芸術」分野での活躍も視野に入れていたと考えられる。しかし、画家仲間や当時同居していた親戚などの証言によると、これらの美術団体におけるいわさきの評価は低く、裕福な出自も影響して「プチブル」や「退廃芸術」と批判されることが多かったという。
「純粋芸術」分野での活動においては困難な状況があったが、児童出版業界の風向きはいわさきに味方した。稲庭桂子の脚本による紙芝居『おかあさんのはなし』(アンデルセン原作、1949 年)で1950 年に「文部大臣賞」を受賞した後、1956年には「小学館児童文化賞」受賞するなど着々と評価を高め、活動範囲を拡大させていった。さらに、1950 年代にかけては、児童出版物だけでなく、商業色の濃い広告の仕事にも積極的に進出していった。ちなみに松山文雄は、プロレタリア美術運動に関与しつつ「喰うための仕事」をすることを、「ブルジョアジャーナリズムの軍門で絵をひさぐ」と表現していた(5)。
いわさき自身も、この時期の仕事については自責の念があったようだ。日記のなかで「私は主人のため子どものためかせぎ働きすぎ、自分の絵をだめにしてしまった」(1953 年6月13日)と記述している。これほどまでに無我夢中に仕事に猛進した背景には、夫の失職によりいわさきが、新生児含む一家3 人の家計の担い手になったことがあった。しかし、ピンチはチャンスとなり、この時期に舞い込んだ「ヒゲタ醤油」の広告の仕事は、いわさきの存在を主婦たちに印象づける重要な役割を果たした。当時の専業主婦層の増大も追い風となり、「ヒゲタの看板画家」として広く知られるようになった。
従来の女性童画家が、結婚を機に生活に追われキャリアの中断を余儀なくされてきたなかで、いわさきはなぜ仕事を継続することができたのだろうか。まず、自身の子どもを全面的に委ねられる実家の存在が大きかったといえるだろう。「大黒柱」となったいわさきは、産まれたばかりの我が子を長野県の両親のもとに預け、自身は東京に残って仕事に専念した。広く一般に共有されている「母性の画家」のイメージを、若干逸脱するようなエピソードでもある。戦前は画家としての夢を両親によって阻まれ、望まない結婚をするなど数々の妥協を強いられてきたいわさきであった。自ら掴んだ画家としての人生を、今度こそは何があっても諦めないという強い決意が感じられる。
1950 年1 月、いわさきが結婚した際に夫・松本善明と交わした誓約書に記された一文が興味深い。 「特に藝術家としての妻の立場を尊重すること」(10)
いわさきが、共産主義思想にもとづく男女平等な夫婦関係を理想として掲げていたことがうかがえる。
その反面で、実際には女性画家に期待されるイメージを積極的に引き受けた仕事によって、彼女の画家としての地位は盤石なものとなった。戦後、一般家庭にも広く浸透した性別役割分業を美しく描き出したいわさきの母子像は、絵本を通して多くの女性たちに好意的に受容された。また、それだけに留まらず、働く母親たちを支援する媒体での活躍もみられる。絵本を子どもたちに手渡す「母親」という立場の女性たちからの支持を広く獲得したことが、次世代へと継承され続ける強固な人気の理由であろう。現代においても、いわさきちひろの人気は衰えていない。
おわりに
戦後を代表する絵本作家を多数輩出した福音館の月刊絵本『こどものとも』の作者の性別を、1 号~ 588 号まで調査した武田京子の研究によると、テキストについては男性優位から女性優位へ、イラストレーションについては、男性優位から男女均衡へと変化している(11)。時代の流れとともに、女性の作り手が増加したことは事実であろう。むしろ、現代では絵本や児童書の分野での仕事は、女性に「適性がある」と認識されているように感じる。それはそれで、「子どもの教育」という従来からの女性役割を踏襲しているといえなくもない。しかし、女性童画家が男性童画家と同等に評価されなかった戦前や、女性に期待されたイメージを全面的に引き受けた作品でなくては、地位を確立することが困難だった時代に比較すると、女性が自由に表現できる場は確実に拡がりつつある。
戦前・戦中・戦後と、思うように絵筆をふるうことが叶わなかった女性童画家たちも、時代が違っていれば全く異なる活躍があったかもしれない。男性を中心に築かれてきた童画の歴史のなかに埋もれてしまった彼女たちの足跡を、今後もさらに掘り起こしていく必要性を強く感じている。
参考文献
(1)松山文雄『新しい漫畫・童畫・版畫の描き方』飯塚書店(1949)
(2)上笙一郎『日本の童画家たち』くもん出版(1994)
(3)「絵本の歩み〈座談会〉-編集者の立場から見た-」
日本児童文学者協会編『日本児童文学 別冊』小峰書店(1974/8)
(4)西真里子『深沢紅子先生のけもない話』教育出版センター(1994)
(5)まつやまふみお『赤白黒』造形社(1969)
(6)「村山壽子年譜」より、村山亜土『母と歩く時』JULA 出版局(2001)
(7)富山妙子『アジアを抱く―画家人生 記憶と夢』岩波書店(2009)
(8)赤い鳥事典編集委員会編『赤い鳥事典』柏書房(2018)
(9)宮下美砂子『いわさきちひろと戦後日本の母親像 画業の全貌とイメージの形成』世織書房(2021)
(10)飯沢匡、黒柳徹子『つば広の帽子をかぶって』講談社(1989)
(11)武田京子『絵本論』ななみ書房(2006)
宮下美砂子
2018年千葉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程修了。文学博士。専門は絵本研究、近現代表象文化研究、ジェンダー研究。現在、小田原短期大学特任講師。著書に『いわさきちひろと戦後日本の母親像―画業の全貌とイメージの形成』(世織書房、2021 年)、共著に総合女性史学会編『ジェンダー分析で学ぶ女性史入門』(岩波書店、2021 年)などがある。
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成川祐一 (火曜日, 04 10月 2022 17:04)
「全17 回の連載のなかで、女性で『先生』として紹介されているのは画家の『岩岡とも枝先生』」は私の大伯母です。独身で、女ばかりの家族の唯一の稼ぎ手だったので、男扱いされたのかもしれません。上笙一郎さんに私が調べたことをお伝えし、2冊あるからと掲載されているコドモノクニをいただいたことはいい思い出です。
楡 (土曜日, 08 6月 2024 12:53)
まあ昔は偏見が強かっただろうとは想像しますが
>性別を問わずあらゆるジャンルの画家たちがギリギリの生活を維持するため、仕事を獲得する必要に迫られていた。
>そうしたなかで、家事や育児の役割を全面的に期待される女性のキャリアが犠牲となったことは想像に難くない。
女性の仕事を正当に評価されないのは差別でしょうが「家事や育児の役割を全面的に期待される」のは家庭間の事でしょう
家事や育児を対等に行う男を伴侶として選べば良かっただけの話なのでは
もう一つの選択としては「結婚しない」という人生もありますね
自分で選ぶという能動性を欠いたままではいつまでたっても理想の社会なんて実現しませんよ