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【追 悼】初期作品にみる富山妙子の作品世界

徐潤雅(ソユナ)

富山妙子《ペルシア湾》油彩、130.3×162cm、1968 年作(推定)
富山妙子《ペルシア湾》油彩、130.3×162cm、1968 年作(推定)

 日韓において敗戦/光復(解放)50周年を迎えた1995年は、富山妙子にとって重要な展覧会が三つも続いた多忙な一年だった。民主化政権を登場させたばかりの韓国では、光復 50 周年を迎える同年を、「韓国美術の年」と定め、秋に第1回光州ビエンナーレを開いた。このビエンナーレに招待された富山は、同年の春に日本の多摩美術大学で「富山妙子 戦争50周年記念企画展20世紀へのレクイエム・ハルビン駅(silenced by history)」を、夏には韓国で初めての個展「光復 50 周年従軍慰安婦への鎮魂 富山妙子回顧展」を開いた。

 1980年代、韓国では富山の作品が検問を避け、密かに伝わっていた。1995 年に韓国で公式的な展覧会が開催されると、特に作品の主題や問題意識が注目を集め、富山に関する報道が35 件にのぼっていた。韓国民主化以前、富山が韓国の軍事政権による入国禁止や、著作の販禁処分を受けていたことを考えると、大きな変化である。

 この1995 年に日韓で次のような作品が展示された。韓国独裁政権による人権蹂躙の状況と闘っていた詩人・金芝河(キム・ジハ)の詩によるリトグラフのシリーズ。1980 年 5 月の光州民主化抗争を力強い版画で表現した「倒れた者への祈祷」シリーズ。日本の鉱山で働かされた鉱夫たちを描いた油彩の《地の底の恨》やリトグラフ。また南国の地に捨てられた日本軍「慰安婦」が登場する「海の記憶」シリーズ。帝国日本による旧満洲の記憶を辿って油彩やコラージュ、シルクスクリーンなど多様な表現技法を施したハルビン・シリーズである。これらは全て、1970 年代~90 年代に制作されたものであり、今も富山の代表的な作品として知られている。

 このように時代を見つめ、民衆を描く富山の作品世界は、いかにして形成されたのだろうか。特に敗戦直後の作品や1960年代の作品は、ほとんど光を当てられてこなかった。ここでは、これまで知られてこなかった作品を中心に、富山作品世界の基礎を成した初期作品の特徴と変遷を考えることにしたい。

神戸 - 大連 - ハルビン - 東京
 富山は、1921 年に神戸で、豊かな文化を持つモダンな家庭の一人娘として生を受けた。1933 年に父親がダンロップ・チャイナで働くことになり、富山は旧満洲の大連とハルビンで女学生時代を過ごした。1938 年女子美術専門学校(当時)への進学を機に上京し、1947年から日本美術会や自由美術家協会を拠点に活動した。富山は、神戸、大連、ハルビン、東京へ住まいを移すなかで、多様な民族の人々に出会い、各社会の中に存在する理不尽な差別構造に気づいた。それは、富山にとって日本の帝国主義や軍国主義に同化されない鋭い感受性を育み、戦後も富山が社会問題に関心を持ち続けた背景を作る礎になった。

「証言的」作品世界のはじまり
 富山は、31歳になる1952年から約10年間、鉱山・炭鉱を探訪しながら作品を発表しつづけ、「炭鉱画家」として知られたのだが、これが彼女にとっての「画業のはじまり」と見なされてきた。しかし、富山は敗戦後間もない時期からアンデパンダン展などで作品を発表している。つまり、「炭鉱画家」になる前から、すでに十数点の作品を描いていたが、その存在は知られていなかった(徐潤雅、2021:123)。
 1946年12月に疎開地の長野から東京の上野へ入り、そこで見た廃墟の東京を抽象的な風景として描き、第1回前衛美術展(1947年5月)や第1回日本アンデパンダン展(1947年12月)に出品した(<図版1>)。《地平線》には、旧満洲の記憶と敗戦の風景が重なっている(富山、2009:83)。1990年代に、旧満州を描いた作品に登場する地平線のモチーフは、本作品を通じて、やはり富山の原風景として重要な意味を持つと言えるだろう。
 また、「silencedbyhistory」(1995年)という展覧会のタイトルが表現するように、富山は歴史によって沈黙を強いられた存在を、絵の中に登場させる。時代を見つめる絵を描こうとした富山の姿勢は、はじめての公式発表の作品《地平線》を描いたことに現れている。

図版1 富山妙子《地平線》(《廃墟》)油彩、サイズ不詳、1946 年作。 1947 年 12 月 9-18 日、第 1 回日本アンデパンダン展出品。
図版1 富山妙子《地平線》(《廃墟》)油彩、サイズ不詳、1946 年作。 1947 年 12 月 9-18 日、第 1 回日本アンデパンダン展出品。

《ヘチランテス》との出会いー「民衆」を描く
 1950 年代を振り返って、富山は、炭鉱村の人びとや子供の「重い生活のカゲ」を「どうして絵にできるだろうか」とためらい、数多くのドローイングは溜まっているものの、油絵にすることはできなかったと述べた(執筆者不詳、1960:91)。また、西洋から輸入された油絵の具で炭鉱村の生活を描くことは「フォークとナイフでタクアンやぬか漬けを食べているようなものではないか」と述べるなど、表現技法と対象の不調和を感じていた(富山、1972:115)。

 1961 年にブラジルに向かった当初は、鉱山・炭鉱の離職者を追うという目的があったのだが、富山の関心は次第に現地で目にするカウンターカルチャーに引かれていった。特に、サンパウロ近代美術館で見たカンディド・ポルチナーリ(1903-1962)の《ヘチランテス(流民)》(1944)は、富山に大きな衝撃を与えた(富山、1963:20、1983:106)。実際、富山は『美術運動』83 号におけるアンケート「私の推すリアリズム美術の作家と作品」で、《ゲルニカ》と共に《ヘチランテス》を取り上げ「人間の心にふれる暖かいヒューマニティ、そしてファシズムへの怒り?/こうした精神につらぬかれた作品を私は現代のリアリズムと考え」ていると述べ、著書『解放の美学』では、「ブラジル社会の中での、最下層の農民たちに深い愛情をこめて描きつづける」画家としてポルチナーリを紹介している(富山、1979:253)。富山は、人間の自由を奪うファシズムに抵抗する、ヒューマニズムの精神に共感していた。そして、まるでポルチナーリに背中を押されたかのように、富山は「民衆」が作品の全面に登場する作品を次々と発表していく(<図版2><図版3>)

油絵からリトグラフへー技法と展示方法の変化

 富山は、1960 年代に中南米やシルクロード、インドなどを旅しながら、現地の芸術と文化に刺激を受け、現地で見た民衆の姿を積極的に描いた。また、旅を通じて自身のアイデンティティーがアジアにあることを確認し、アジアで起きる様々な問題と、その原因に関わっている日本の加害性も強く認識した。

 ベトナム戦争反対運動以降、活性化された市民運動は、日本の中のマイノリティーの存在を取り上げるようになっていった。富山も 1960 年代後半から市民運動に加わり、その過程で、韓国の政治状況に関心を持ち、韓国問題の背景にある日本の植民地支配と戦後の経済的再侵略に責任を感じた。1970 年の韓国訪問以降、政治犯やスパイとされた韓国の知識人や在日朝鮮人の留学生の事件を国際的に知らせる救援活動をしながらリトグラフ作品を制作した。

 一方で、作品活動は、自由美術協会や日本美術会などの画壇から離れ、自宅に設立した火種工房で、市民運動の場へ郵送できるスライドや詩画集の作品を制作する形に変化する。表現技法も油彩から版画に変え、スライドや詩画集、レコードといった形でメディア化していった。持ち運びが簡単なこれらの作品は、他ジャンルの芸術家たちと共同制作を行いながら、美術館の権威に頼らない、新しい芸術の形を作っていった。

 また、1970 年代の作品は手軽に持ち運べるため、額縁に入っている作品に比べ、検閲をすり抜けて、韓国、タイ、フィリピンなどのアジアの民主化運動の現場にまで届けやすく、各地の運動の現場を作品でつなげる役割を果たす。特に1980 年 5 月の光州事件の際には、約 1ヶ月で版画を制作し、さらにスライド作品化したものを、日本国内外の光州連帯運動の場まで届けることができた。

 これらの活動から推し量られるように、富山は絶えず変わりゆく社会状況を見つめ、鉱山の労働者や住民、南米の農民、韓国の政治犯、民主化運動で戦う「民衆」と、彼/彼女らが生きた歴史の陰影を絵の中に刻んでいた。作品の制作方法も常に同時代性を持ち合わせ、時代に応えて柔軟に更新をつづけながら、作品を必要とするところへ届けた。

 昨年 6 月10日、韓国政府から「国民褒章」を受賞した富山は、同年 8 月18日、99 年 9カ月の生涯を閉じた。またしても強制労働の歴史を隠蔽した佐渡金山の「世界遺産」登録申請が問題となっている今の日本を、富山はどう考えているのだろうか。これからは今日本に住んでいる「わたしたち」が、消されようとする歴史の陰影を描き続けなければならない。


【参考文献】

執筆者不詳 1960「ヤマのこどもをみつめて八年間(富山妙子さんの場合」『週刊明星』岩波書店

徐潤雅 2021「富山妙子が模索した「新しい藝術」とは何か:敗戦後から1960年代までを中心に」富山妙子展記念学術大会資料集『記憶の海へ:富山妙子の世界』延世大学博物館・国学研究院、東京大学東洋文化研究所

 

富山妙子

1963「ラテン・アメリカの旅を終えて」『美術手帖』(215)美術出版社

1969『美術運動』第 84 号、日本美術会

1972「炭鉱・朝鮮」『日本アンデパンダン展 25 年・歴史と作品』

   『美術運動』92・93 号合併号、日本美術会

1979『解放の美学?20世紀の画家は何を目ざしたか』未来社

1983『はじけ ! 鳳仙花―美と生への問い』筑摩書房

2009『アジアを抱く』岩波書


徐潤雅(ソユナ)

立命館大学コリア研究センター客員研究員。主な論文に「富山妙子における「新しい芸術」の模索――敗戦後から 1960年代までを中心に」『東洋文化』第101号(東京大学東洋文化研究所、2021年)「富山妙子の目に映った韓国――《朝鮮風景》 、からスライド『倒れた者への祈祷』まで」『対抗文化史 ―冷戦期日本の表現と運動』(大阪大学出版会、2021 年)など。