篠原一夫(しのはらかずお)美術運動・編集
さすがに浜松
昨年から続くCOVID-19 禍のなか、2021年12 月 11日早暁、筆者(篠原)は単身、品川からの新幹線に乗り込む。本誌今号の美術館訪問先は静岡県浜松市だ。車内のにわか勉強で「基本データ」を詰め込む。多少予備知識があったのは、建築史家としての藤森照信。それも千円札裁判や超芸術トマソンの赤瀬川原平と組んだ“路上観察学会”の活動だけ。ふと気づくと進行方向右側に、晴天の青空を背景に白雪を被った富士の姿が車窓いっぱいに迫っていた。(富士山を眺めるならば、登りは左側の席を確保されたし)
午前 8 時。浜松駅のホームに降りると、焦げた醤油の香りが鼻をくすぐる。それはあきらかにウナギを焼いた香りだが、「まだ朝だぜ?」。
浜松は楽器の製造で知られ、市内には日本で唯一の公立楽器博物館がある。また、万葉集の研究を端緒に江戸時代に初めて“国学”を樹立した、賀茂真淵(かものまぶち)の生地として、国文学の学徒にとってのメッカでもある。そして駅ホームに漂う気配からは、さすがに“美味礼讃”の地も予感させる。
レトロな街道から
美術運動編集部の3人(木村、村田、篠原)に日本美術会会員・オザキユタカ氏のメンバーが訪れた12 月12 日、秋野不矩美術館は、旧秋葉街道を折れて二俣川を渡り、その先の小高い丘陵地を登るにつれてその姿を現す・・・・。
前日、筆者は独りの気安さで、浜松城を見物。老舗鰻屋“曳馬野”で熱燗と鰻重を堪能。さらに賀茂真淵記念館へ足を延ばし、そこから徒歩10分にある小池旅館でメンバーと合流した。一夜明けて新浜松駅から遠鉄電車に乗り30余分で終点・西鹿島駅。駅前で二俣・山東行き遠鉄バスに乗り換え15分。バス停・秋野不矩美術館入口下車。
バス停前の二俣クローバー通り商店街(旧秋葉街道)は、日曜だからか常態なのか、我々4人以外に右を見ても左を見ても、車は走らず人の姿もない静けさに、小春日和の暖かい陽光が降り注いでいた。山東方面に少し歩くと秋野不矩美術館の案内表示がある信号機の交差点を右折。ところが木村編集長、なぜか直進。何やら発見した様子でカメラを構える。レンズの先を見ると酒屋らしいシャッターの降りた店舗。文字が一部欠け落ちているがオーシャンウヰスキーと判読できる商品名。若いウィスキーを寝かせる樽を模したファッサード。「これがいわゆる看板建築か」。それを皮切りに、大正期、昭和期とおぼしきレトロな建築が商店街の左右あちこち目に付く。思わぬ「発見」にみな興奮。
記憶から現れる黄土色の画家
名前からは性別不明なほど“秋野不矩”について無知だった筆者だが、事前の勉強で作品写真を見ているうちにTV 番組で紹介された映像の記憶がうっすらと思い出された。インドにたびたび滞在し観察し印象を描いた日本画家として他に類例を知らず、記憶のどこかに刻まれたようだ。それは、欧米ではなくまた湿潤なアジアでもない。乾燥した風土を思わせる黄土色に染まった壁土と、草葺の低く深い屋根が軒下に黒々と影を落とす民家であり、また強い日差しを避け頭からすっぽりと身体を包む民族衣装をまとった茶褐色の肌をした男女であり幼児であり、水辺に憩う長く前に伸びた角を持つ水牛であった。
様式を脱臼した設計デザイン
美術館の建物は藤森照信の設計というより“作品”と呼びたいような個性が全面に押し出されていた。それはモダニズムでもなければメタボリックでもなく、あるいは帝冠様式でもない。近年流行のコンクリート打ちっ放しでもなければいつの時代のものでもなく、いかなる様式をも脱臼した名状しがたいデザインの不思議な建築。入口に対峙し美術館を見下ろす尾根の端には、直立する3本の丸太の上に鎮座する丸い造形物があり、その奇妙なものは望矩楼と名付けられた茶室とのこと。底から
見上げると、躙り口の戸板が見えるが梯子でもないと上がれない。
衣装として呼応する美術館
美術館の正面外観は、強烈な陽光を遮るイスラム建築のように広い壁で、黄土色の土壁仕上げ。その上方には穿たれた小さな窓。入口の扉は太い丸太から荒々しく剥がされたような凸凹の厚い板で作られ、城郭の門扉の剛性を見せる。 館内入口で靴を脱ぎスリッパに履き替える。広い廊下の両側の壁面も展示スペースで、左壁面には不矩の作品。右側には特別展の石本正の作品。廊下の先は正方形の広い主展示室。床から壁、そして天井までが乳白色の塗装。展示室の中央に立つと、塗装そのものが放射しているかのような巧みに隠された照明のぼやっとした白光に包まれる。館の黄土色の外壁を身に纏う衣装と見立てると、さながら展示室は衣装に包まれた白い肉体。その肉体に包まれるような不思議な浮遊感を覚える。展示された石本正の白い裸婦たちと呼応し、そして黄土色の外観は不矩の絵画と呼応しているようだ。
歴史とアニメの土地
訪問した当日は、日本画家・石本正(いしもとしょう)の生誕100周年回顧特別展の会期中。編集部一行をにこやかに迎えて下さった館長の小木知靖(おぎとしはる)氏の説明によると、石本正は、現在の京都市立芸術大学を卒業。のち同大の助手となり、そこで秋野不矩と出会う。年長の不矩に目を掛けられ創造美術に参加。出品した作品は初入選。以後不矩が亡くなるまで交流が続いたとのこと。
館の所在する二俣町は、レトロ建築群に加えて古道や徳川家康ゆかりの二俣城など歴史の面影が濃い地だが、今の時代のアイコンも刺さってくる。それが、アニメーター・庵野秀明(あんのひであき)が製作・指揮した“シン・エヴァ”、即ちエヴァンゲリオン劇場版最終作。それが今年(2021)春に公開されると、天竜二俣駅が、劇中の“第3村”の舞台でもあり多数の若者たちが町を訪れ、連動して美術館の来館者数も増加。11月には累計100 万人を記録したとのこと。“エヴァンゲリオン効果”に一行で最も若い村田氏が反応。だが筆者を含めその“話題作”に不案内の 3 人はただ敬聴するのみ。
なお当館はこれまで浜松市の管理運営。従って館長の小木氏は浜松市の公務員。だが管理・運営が新年度(2022 年)から指定管理者制度になると聞いた。
帰路は街道まで戻ると、森閑とした商店街のバス停前にある“カフェ・ふくすけ”に入る。意外にも店内は複数の先客がいたが、ちょうど4人掛けの席があり、ビールで取材完了を祝すとともに昼食とした。
西鹿島駅に向かうバス時間の確認に出ると、古希近いと見えるカフェ店主が喫煙していた。「バス停の真ん前だから客も多いんじゃない?」と声を掛けると、「なに言ってるんだい、見てご覧ョ。人っ子一人歩いてないじゃねぇか」とあきれ気味のタメ口。この日が日曜だからか、あるいはこれが常態なのか?またしても疑問。人口変動による過疎化の影響は日本各地に及び、この地もその例に漏れず・・・なのであろう。しかし、レトロな街道筋をのんびり歩くのも悪くはない。静寂に包まれて師走らしからぬ暖かい日差しを浴びつつ想う。「つぎは平日に来てみようか・・・。
[ 基本データ]
秋野不矩(あきのふく)。1908 年現在の静岡県浜松市天竜区二俣町生。2001 年京都没。日本画家。1999年文化勲章受章。1962 年(54 歳)、求めに応じインドの現・タゴール国際大学に客員教授として赴任。以後最晩年の91 歳まで、数年おきにインド滞在。近隣諸国にも繁く足を延ばして人物から民家、寺院、自然の風物に至る独自の作風を築く。また石井桃子らと組んだ絵本原画の制作のみならず、京都市立美術大学で定年退官するまで精力的に後進指導。
藤森照信(ふじもりてるのぶ)。1946 年長野県・茅野市生。建築史家。東京大学生産技術研究所教授を経て江戸東京博物館館長。80 年代には画家・作家の赤瀬川原平やイラストレーターの南伸坊らと路上観察学会結成。1991 年には建築家としてデビュー。屋根にニラを生やした赤瀬川邸やタンポポを植えた自邸、案山子のような特異な形状の茶室など多数発表。関東大震災後に流行した板金による洋風のファッサードの店舗兼住宅群に“看板建築” と命名。著書・対談集多数。
秋野不矩美術館。地元出身の画家の偉業を顕彰し、地域芸術文化振興を図る目的で計画された当美術館の設計は、画家の推薦により藤森照信に依頼。天竜杉を多用した館は、静岡県浜松市天竜区二俣町二俣に1998 年4月開館。収蔵する多数の秋野作品の紹介はもとより、共通性のある作家の特別展も企画・開催。(訪問時は、石本正特別展会期中)二階展示室は市民の創作活動発表の場として使われる市民ギャラリー。
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