北原 恵(大阪大学元教員)
(2)1946 年リスト作成・再審議の経過
まず、1946 年の「美術界に於て戦争責任を負ふべき者」のリスト作成の経緯について、『日本美術会々報』(以下『会報』、3 号-1 及び3号-2も含む※3)をもとに、簡単に振り返っておこう。
1946 年4 月21 日、日本美術会が結成される。72 名のメンバーと来賓が目白の自由学園講堂に集まった。創立大会では「美術界当面の諸問題に関する議案(a ~h)」を審議し、そのなかのひとつ「g.
美術界の粛正について」を永井潔が提案し、可決された。――「ファシストの蹂躙を防ぎ得なかった、過去の美術界の諸欠陥を指摘すると共に、戦責追及を美術建設事業の一部として規定、従ってそれは単に戦争画を描いた、描かないの問題などではなく内容に於ては文化破壊者に対する斗争なる事を説き粛清委員会の結成を提案可決。」(『会報』1 号,1946.5.8, p.3)
創立大会では、「g. 美術界の粛正について」のほか、a. 美術家協同組合について、b. 美術家の生活擁護について、c. 美術作品の発表方法について、d. 大衆の美術的資質の昂揚について、e. 古美術作品の解放について、f. 文化各部門との提携について、h. 物故民主々義作家の遺作展について、の全8 項目が審議された。
5月6 日、問題別小委員会が編成され、第1回「美術界粛清委問題」委員会に、永井潔・入江弘・永見譲治・杉本博・赤松俊子が入る(『会報』1 号, p.5)。6 月2 日、第3
回委員会及第2回常任委員会(合併)において、「美術界粛清問題」は、「緊急性を認め即時実行に移すべきを決議」する。6月3日、読売新聞社講堂で開かれた日本民主主義文化連盟(以下「文連」)の文化界粛清委員会に永井と本郷新が出席し、「加盟各団体は何れも一級戦争責任者を決定せるも、本会は更らに審理審査の要を主張 6 月20 日迄にこれを決定名簿の提出を約した。」(以上『会報』2 号,
1946.6※4, p.5, 8 )。6月16日、「美術界の戦争責任」に関する創立総会を開催し、文連への提出を確約した戦争責任問題を審議し、最終決議案を採択した。
6 月20 日、日本民主主義文化連盟に「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」を提出(『会報』3 号-1, 1946.07.05)。7 月5 日発行の『会報』第3 号-1 において、6 人の官僚軍人ジャーナリストと8 人の美術家を合わせた「A. 自粛を求める者」(14 名)と、団体名を挙げた「B. 反省を求める者」を掲載した。
【下のリスト一覧参照】
美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト(6月20 日日本民主主義文化連盟に提出)
A. 自粛を求める者
- 井上司朗
- 情報局文芸課長、強権を背景として美術家を戦争に馳りたてた反動政府の官僚、又文筆活動に於ても自由な美術文化を破壊するため積極的に活動した。
- 中村恒夫
- 情報局文芸課員(美術係)元航空美術協会理事、美術破壊に直接当った反動官僚、又ナチス的文化政策の鼓吹者にして、ファショ団体なる航空美術協会の主動的組織者。
- 鈴木庫三
- 陸軍中佐、陸軍報道部員、軍部のとった美術破壊政策の実践を直接担当した軍人。
- 山内一郎
- 陸軍大尉、同上、又文筆活動に於ても自由な美術文化の破壊をする言論をなし積極的に活動した。
- 住 喜代志
- 反動的ファショ的商社陸軍美術協会の組織者。
- 遠山 孝
- ファショ的美術ジャーナリスト、聖戦美術展、其他戦争煽動的諸運動の企画並びに組織者。
- 横山大観
- 芸術報国会会長、美術界に於て建艦運動、飛行機献納運動等を率先して提唱し軍国熱醸成に力を尽した。又神秘的選民思想排外主義思想を絵画化して国民をギマンするに力があった。国家神道の鼓吹者。
- 児玉希望
- 美術及工芸統制会理事長、美術報国会理事、商業資本官僚軍閥らと結び物質的統制を通じて美術の自由な発展を妨害し美術界のファショ的体制を築くに努力した。美術及工芸統制会の直接的指導者。
- 藤田嗣治
- 創作活動に於て最も活発に積極的に軍に協力した。又文筆に於ても軍国主義的言論をもって活躍した。その画壇的社会的名声は軍国主義的運動の大きな力となり国民一般に与えた影響も極めて大である。
- 中村研一
- 同上。
- 鶴田吾郎
- 軍需生産美術挺身隊長、新京美術院教授、其の他多くの反動軍国主義的団体に関係し且つその組織者としての役割を多く果した。作品活動に於ても最も積極的に戦争の煽動に尽し軍国熱を煽った。
- 長谷川春子
- 女流美術家奉公隊長、女流作家界に軍国的統制を敷いた前記運動の組織者、作品活動に於ても最も積極的にファショ的似而非美術の製作に従事した。
- 中村直人
- 軍需生産美術挺身隊の組織加担者、新京芸術院の組織に参画、彫刻界に於ける最も積極的な軍の協力者。
- 川端龍子
- 満州事変以来ファショ的画因を標幟として進出、「太平洋三部作」をはじめとし、創作活動に於いてファシスト的美術家の先頭をきり、戦争熱醸成につとめた。又帝国主義満州統治政策の美術部面を分担し、新京芸術院の設立者となった。
B 反省を求める者
陸軍美術協会、海洋美術協会、航空美術協会、軍需生産美術挺身隊、女流美術家奉公隊、日本美術報国会、日本美術及工芸統制会等の幹部、役員の全員。
陸軍海軍報道班員並びにその活動に積極的に協力せる者。前記諸団体の幹部又は役員に非るもその活動に積極的に協力せる者。
(『日本美術会会報』第3号-1、1946.7.5 南博編『戦後資料:文化』より)
7月7日、委員会において「美術界の戦争責任」について再審議し、アンケート調査をすることを決定。7 月10 日発行の『会報』3 号-2 では、冒頭の「美術界の戦争責任」に関する創立総会採択決議案要旨」という囲み記事を掲げて、以下のように述べている。長くなるが引用する。――「既報6 月16 日の美術界粛清委員会は当日午前10 時より開かれ6 月20 日までに本会決議案を提出すべき日本民主主義文化聯盟に対する確約に基き本問題を審議、一応最後的決議案を採択6 月20日の同聯盟委員会に望んだが、其の後の社会情勢にも徴し同聯盟に於いても更に審重[ママ] を期すべきことに同意せられたにつき、上記最終的決議も尚不充分な審議に依るものとして、7 月7 日の委員会に於いて再調査すべきことに決定した。目下の多数会員の集会困難な状況にかんがみ、全会員に当て、「はがき回答」を要請し、以つて会員の総意に基き本問題を再度審議検討 最後決定をなることにした。
このため本問題についての創立総会決議要旨を掲げ、これを参照批判しての会員各位の真摯な回答を要望する。」(『会報』3 号-2,1946.07.10, p.1。傍点は引用者、以下同様) このように『会報』3 号-2
では、「リスト」の文字は一切登場せず、「最後的決議案」(=リスト)を文連に提出したのかどうかも、明確でない。「6月20日の同聯盟委員会に望んだ」と書かれているのみである。そして、アンケート調査の集まりは悪く、10 月過ぎても回答は23 件のみ。1 年足らずでこの問題は立ち消えになった。
以上、「美術界に於て戦争責任を負ふべき者」のリスト作成をめぐる経過を、同時代に発行された『会報』をもとにたどってみたが、ただちに以下の疑問がわいてくる。1946 年6 月20日に、リストを、文連に提出したのか、返却されたのか?
仮に受理したとすれば、文連はその後リストをどうしたのか?
文連に所属する他の会のリストも含めて、GHQ に渡したのか?文連はGHQ との関係はどうだったのか?
もし、日本美術会のリストが文連だけに宛てて作成され、その後方針転換してリストを保留したのだとすれば、それは、「社会に戦犯リストを公開した」と言えるのか?
これらは些末なことに見えるが、すべて美術史の記述に関わることである。
そこで次に、「美術界に於て戦争責任を負ふべき者のリスト」作成の関係者をはじめ、美術界がこのリストについて、その後どのように語ってきたのか、上記の疑問に留意しながら敗戦直後から1970 年代までを中心に、関連の言説を検証したい。浮かび上がってきた日本美術会以外のキーパーソンは、船戸洪吉、針生一郎、菊畑茂久馬である。
※3 『 日本美術会々報』3 号 -1(1946 年 7 月5 日付)の原資料は所在不明のため未見であるが、日本美術会自身も二種類発行したことは認めているので(日本美術会『日本アンデパンダン展の25 年:歴史と作品』p.13)、本稿では二種類存在したものとして扱う。3
号-1 については、南博編『戦後資料:文化』(1973 年)の再録に従う。
※4『 日本美術会々報』第2号の発行日は、日付まで記されていないが、6 月16 日の委員会への参加を読者に呼びかけているので、6 月前半だと推測される。
北原 恵 / きたはらめぐみ
美術史・表象文化論・ジェンダー論
著作に『アート・アクティヴィズム』、『攪乱分子@ 境界』、『アジアの女性身体はいかに描かれたか』他。
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