アライ=ヒロユキ 美術・文化社会批評
「表現の自由」を考えるとき、政治的抑圧を第一義に考えがちだ。だが実際は美術と政治の制度は共犯関係にある。両方の突破口を本稿の目的としたい。
日本の表現史で著名なものに悪徳の栄え事件がある。1959年に翻訳出版されたマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』が猥褻に当たると起訴され、有罪となった事件だ。罪に問われたのは翻訳者の澁澤龍彦と出版者の石井恭二(現代思潮社社長)。当時、澁澤はこう提言している。
「人間は反社会性、反生産性の原理に立つべきではないか。人間の主体的な自由と係りのある本質的な価値は、あくまで実利主義的な価値でしかない生産の側にはなく、むしろ反社会的な、日常的世界を逆転させた、消費のための消費の側にのみ在るべきではないか」(澁澤龍彦「反社会性とは何か」『神聖受胎』)。
これは司法が『悪徳の栄え』を「反社会性」とみなし断罪したとき、逆説的に開き直って意義を述べたものだ。現在、表現の自由は日本国憲法に照らした合法性が主張される傾向にあるが、そこからすると純粋芸術的でナイーヴな主張に写るかもしれない。だが澁澤のいう反社会性を積極的に再評価してみたい。
2022 年の美術界で座視できない事件が幾つかあった。まず、ドイツのドクメンタ15 と国際芸術祭「あいち2022」がある。ドクメンタはもっとも「左翼」的な国際美術展として知られるが、15
回目でタリンパディの《民衆の正義》が反ユダヤ主義的差別表現と指弾された。問題視されたユダヤ人の人種特徴を誇張した諷刺画(全体の一部分)は撤去された。妥当な措置であろうが、他作家のパレスチナでのイスラエル政府の蛮行に言及する表現も批判を受けた。これを契機に、ドクメンタの展示内容を行政が監視管理下に置く動きが起こった。
これに対し芸術監督のルアンルパは検閲と抗議。出品作家は連帯表明をし、「検閲委員会は私たちが知るアートの時代の終焉である。これはアートが政治的体制に奉仕する新しい時代(あるいはむしろ古い時代への回帰)を代表するものだ」と批判した(「Censorship Must Be Refused: Letter fromlumbung community」July 27,
2022、「e-flux」)。
国際芸術祭「あいち2022」(片岡真実芸術監督)はあいちトリエンナーレ2019(津田大介芸術監督)との連続性で見たほうがいいだろう。2019 は意欲的な内容だったが、その中の「表現の自由展・その後」が強制中止された後、あいちトリエンナーレのあり方検討(検証)委員会が立ち上げられ、検閲(展示中止)を正当化する検証と声明を行った。続く日本語表記のみ改名した国際芸術祭「あいち2022」では出品作家から身近な韓国/朝鮮の作家を除外した(韓国系アメリカ作家の出品あり)。検閲の意を受けての表現内容の制限あるいは行政への阿諛追従だろう。内容の問題視から管理統制への経緯は、作家(あいトリでは主に海外作家)が連帯し抗議声明を出した点も含め、ドクメンタ15 と似ている。
国際美術展は多文化主義の象徴としばしばみなされる。キュレーターのカルロス・バスアルドは各国の国内展のモデルケースになっていると言う。しかし大規模なスケール性やイベント性が現代のグローバリゼーションの象徴と批判も受ける。アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは均質化と拡散という帝国主義と植民地主義の様相があると批判しており、ドクメンタ11の芸術監督のオクウィ・エンヴェゾーはその懸念を受けつつ利点を論じた。それは政治的表現や文化の特異性との新しい関係を築きうるスペース(場)の存在価値で、それが「グローバル資本主義による根深い無個性化と文化変容に対し抵抗のモデルになる」と述べた(「Mega-Exhibitions
and theAntinomies of a Transnational Global Form」)。
では、一種の規範ともなっている国際美術展は抵抗のモデルたり得るだろうか。現実には美術の制度の壁ゆえ難しさがある。
2017 年のドクメンタ14 は統一テーマを「アテネから学ぶ」とし、ドイツ・カッセルとギリシャ・アテネの二会場で開催した。学ぶとは民主主義のルーツにという意味で、検閲(表現の自由)や先住民族の問題に取り組む意欲的なものだ。しかし財政危機にあったギリシアがドイツへの経済的従属を深めつつある時期であったにも関わらず、直近の社会矛盾に目を向けるものでなかった。
世界的な評価の高い光州ビエンナーレ2014 では、本展でなく特別展で、当時の朴槿恵大統領を揶揄した洪成潭の作品《セウォル五月》が検閲され展示拒否された。抗議運動は特別展示の作家のみ。「国際作家」と「現地作家」の間の分断が見て取れる。国際美術展のエリート性だろうが、洪が体現する韓国の抵抗の表現「民衆美術」を無視する多文化主義とはいかなるものか。
現実は理想論でいかないとしても、国際美術展は多文化主義を装いつつ抑圧を隠蔽するグローバリゼーションのイデオロギー機関の側面がある。「抵抗の場」を築きうるとしたらアクティヴィズムだろうが、これも制度から逃れにくい。ジェンダーや階級(貧困)のような美学や哲学の言説に回収されやすいものが登用される傾向がある。そこから最も遠いのが、都市開発のジェントリフィケーションや環境保護の抵抗運動だろう。
2022 年の美術界のもうひとつの重要なトピックに、「JustStop Oil」(以下JSO)をはじめとした環境アクティヴィストがヨーロッパの美術館で展開した抗議行動がある。名画の横に自らを糊付けし、ゴッホの《ひまわり》にトマトスープをぶつけるといった美術品の毀損すれすれの行動をときに行い(作品はガラスケースで保護)、化石燃料利用の停止を訴える活動だ。その背景に、この10 年のうちに抜本的な対策を講じないと人類の存続自体が危ぶまれる危機状況がある。
これに対し、シンポジウムで一定の理解を示すキュレーターもいたが、美術館長協会や国際博物館会議(ICOM)は抗議声明を発した。これも表現の自由?の一環には違いないが、美術界全体が気候危機に対し積極的かつ一致した対応を取っていない以上、「一方的」な否定は「人類滅亡」の危機への応答性が欠如するものだ。つまり、美術界のときにリベラル・左翼的に見られる姿勢はポーズに過ぎないとも言える。
環境アクティヴィズムは単なる美へのヴァンダリズム(野蛮行為)ではない。JSOは抗議行動のさい、コンスタブルの田園風景の絵画に環境破壊された風景図を上から貼り付けた。これは「再想像」(re-imagine)と呼ばれている。美の意味を問い直す思索表現行為でもあり、美術界の現実(社会矛盾)への応答性に対する挑戦状と見ていいだろう。
いま直面している危機は、ジャック・ランシエールの「コンセンサス民主主義」で言いあらわせる。「コンセンサスが前提にしているのは、係争の当事者と社会の当事者のあいだのずれそのものの消滅である」。そしてそこには「さまざまなかたちの民主主義的な行動を抹消するコンセンサスの実践を、民主主義の名で主張するというパラドクス」があるという(『不和あるいは了解なき了解』)。現在の複雑な社会システムにおいては、憲法に根ざした合法性、合意形成による諸手続き、多数派に代表される全体意志などは、問題点の解決こそを目指す民主主義本来の役割を逆に形骸化させることもある。そこで彼は処方箋として「不和」の概念を提起する。政治的矛盾に対し強者と弱者の強制的かつ欺瞞的な対話でない衝突によって問題のありかを明らかにすることが必要という。左右のベクトルがだいぶ異なるが、矛盾が正義や対話(分断回避)の美名のもと圧殺されている点でドイツと日本の構造的矛盾は変わらない。
ハンナ・アーレントは公的領域と社会を峻別する。彼女は公的活動に根ざした政治性を希釈し、無化するものを社会と呼んだが、これは近代の資本主義が生んだ大量消費行動が招いたものという。彼女のいう公共性は異なるものが併存する複数性を基軸にするもので、これには統合でない不和による政治性が不可欠だ。澁澤龍彦のいう反社会性も同義と見ることもできる。
ランシエールのいう不和は美学に転化できる。「すぐれた表現」は本来一義的でなく多義的だ。この多義性は予定調和でなく、不和という錯綜を抱えた状態、あるいは不和を招来する姿勢に読み替えられる。この反社会性は、体制への抵抗の手段であり、また政治的党派への回収拒否の双方にもなる。 中世のロマネスク美術は宗教性という点で非世俗的(unsecular)であったが、個人の表現となった近現代の美術も非世俗性をなかば具有している。この非世俗性を反社会性に読み換えること。そこに美術や芸術の自律性があり、それが異なるものと出会う「場」にもたらす緊張感こそ抵抗の燭光になるだろう。
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楡 (金曜日, 07 6月 2024 00:57)
萌え文化を差別性があるなんて無根拠な中傷するこの筆者が多文化について語るってのは恐ろしい
まず萌え絵についてデタラメな中傷したことを謝罪すべきでしょうに