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日本美術会と美術家の戦争責任問題(1)-序文に代えて-【後半】

北野 輝 きたのてる (美学・美術批評)

「藤田スケープゴート」説
(夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』)をめぐって
 なお「内田の藤田追放」説と対をなす俗説に「藤田スケープ・ゴート」説(藤田は日本の美術家たちの身代わりとなって戦犯の罪を負った、あるいは負うよう説得された)がある。こちらは2016 年の藤田展の際にに示された「と説得されたとといいます」という文言と内容がほとんど同じだが、それは主に藤田自身の「言いふらし」がもとになったものらしい。いずれにしても両俗説の内容は実質的にはほぼ同じであり、ここでは簡単に触れるだけで十分だろう。

 さまざまな戦犯容疑の風説が飛び交っていた1946 年以来、藤田が自分の方こそ犠牲者なのだといった風の弁解を言いふらしていたらしい。その当時、藤田がどんな弁解めいた発言をしていたのかは詳らかではない。しかし、上述の内田の藤田訪問時における彼の内田への応対の様子が藤田晩年の「直話」(1965、6 年頃)に記されており(夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』三好企画 2004.p.351)、当初よりかなり脚色されたものであろうが知ることができる。その「直話」も文末に資料として掲載しておく。それは君代夫人が語っていたこととも船戸記者が書いていたこととも大幅に異なっている。問題の「藤田スケープ・ゴート」説に直接かかわる箇所だけここに引用する。

 何んな事があっても私[ 内田] は先生を見棄ては致しません。必ず私一人丈でお世話を致します。何うか先生、皆んなに変わって一人でその罪を引き受けて下さい。酒が入ってか内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。夜も更けて遅くなって、折柄降り出した雨に、私は内田に洋傘さしかけて提灯の火を頼りに小竹町の駅迄送った。

 ここには、帰路についた内田の描写が船戸記者のそれと大きく異なっているなど、いくつか問題があるがそれには立ち入らない。内田巌が「皆に代わって一人で罪を引き受けてください」と懇願したという藤田自身の記述を確認するだけで止めよう。ただし、ここでも主客逆転し内田巌がみじめなスケープ・ゴートにされていることだけは言い添えておきたい。俗説はすべてこの主客逆転において成り立っている、あるいは機能していると見られる。
 ところでこの「直話」を伝える夏堀著が出版される以前に、「藤田スケープ・ゴート」説が生きていた、あるいは「生かそうとしていた」‘事件‘ が起こっていた。1999 年9 月、NHK スペシャル「空白の自伝・藤田嗣治」というテレビ番組が放映された。その番組の制作のため詳細な取材を受けた永井潔が、終戦直後の美術家の戦争責任問題についてほんの30 秒ほど出演し語ったが、その番組制作の企画書にははっきりと「スケープ・ゴート」という言葉があったという。永井は「スケープ・ゴート」説に基づく制作には反対であるという了解で協力し出演したが、実際に放映された番組は彼の意を汲んだものとは大きく異なったものになっていたという(私はこの番組を見逃している)。憤懣やるかたない彼のNHK への抗議とNHK/ ディレクターとのやり取りなど、彼はその顛末を詳しく書いている(永井潔「スケープ・ゴートの虚構」『あの頃のこと今のこと』日本美術会2008.11.10 p.88~102)。このようなエピソードの中にも「藤田スケープ・ゴート」説が生き続けている様子が見られる。

この節の終わりに、戦争責任をめぐる事実と異なる風評/ 俗説の三人三様のヴァージョンを示しておこう。

▷戦争がすんだある日、共産党の若い画家が藤田さん宅へ押しかけ「お前は戦犯だ」と脅迫、これがもとで、藤田さんは米国へわたることになった。̶ 画家・高畑達四郎(「朝日新聞」1968 年1 月30 日付)

▷どうして画家が〈戦犯〉として裁かれる必要があったのか? ̶

画家・村上隆(「徳島新聞」2005 年11 月7 日付夕刊)

▷藤田は戦争画で身を粉にして国に仕えたけれども、結局はそれが原因で母国を追われた。̶ 美術評論家・椹木野衣(椹木野衣/ 合田誠『戦争とニッポン』講談社 2015 年6 月22 日 p.93)

 このような風評/ 俗説は、真摯に問われるべき戦争責任問題がさまざまに変形され風化させられてきたことを物語っているだろう。ただし興味深いことは、高畠氏は〈個人と集団(共産党)〉、村上氏は〈「村社会」としての日本美術界〉、そして椹木氏は〈国家(戦前に遡れば天皇制国家)〉への関係づけにおいて語っていることである。戦争責任問題が、図らずも個人(集団)、社会、国家への広がりないし重層性を持っていることの例証であろう。

美術家の戦争責任問題の「現地点」と課題
 2015 年の藤田展での「一説によると…」「…といいます」という短い(短すぎる)コメント、それと同根の「内田の藤田追放」説と「藤田スケープ・ゴート」説は、藤田らへの戦争責任追及を未解決/ 未決のまま放棄しているばかりでなく、追求者側を加害者に対立的に逆転させる性格のものであった。それは戦争責任問題を問う者たち、いやすべての美術家たちに残された負の遺産となっている。私たちの立っている現地点は「マイナス地点」であることをまず確認しておきたい。
 拙稿のこれからの行き先を私自身がはっきりと見定めているわけではない。前述の藤田展評ではそこにある課題や問題点を以下のように挙げていた。

 「戦争画」と「戦争責任」問題はたんなる過去のことではなく今日的問題となっているのである。戦争と美術、戦争への美術家のかかわり、国家・国策・国家的プロジェクトと美術家とのかかわり、「表現の自由」と美術/ 美術家の「自律/ 自立」、美術家の「主権者」としての「責任」、広くは現実と美術/ 美術家の関係、美術家と市民・鑑賞者の関係、等々…。かつての戦時下とは異なる、しかもかつてと重なり合う状況下で、私たちが対応を迫られ、対峙すべき多くの問題が浮上している。(前掲拙稿『美術運動』No.143 p.30)

 以上は総花的な列挙にとどまるが、その中のいくつかに焦点を絞り、次回は日本美術会の歩みとのかかわりにおいて戦争責任問題の実質的な検討に入ることになる。近代日本の戦時下における「戦争画」の芸術的評価/ 価値の問題にもぜひ論及したい。(つづく)


(付記)本稿執筆に当たっては、資料に関わる諸問題で北原恵氏と小西勲夫氏に大変お世話になりました。記して感謝いたします。


〈参照資料〉
 夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』には、船戸洪吉『画壇』の「内田巌の藤田嗣治訪問記」の該当部分が原文そのままに引用されており、それにすぐ続けて「藤田嗣治直話」が記載されている。したがって、便宜的に夏堀著の該当部分の引用をもって、船田手記と藤田直話の各々の掲載に代替することにする。夏堀著に引用された船戸手記は原著の船戸『画壇』での記述と違わない。掲載部分は354~355 頁に当たり、括弧内には夏堀著の頁数、次に船戸著での頁数を= で繋いで表示している。

 

「内田巌の藤田嗣治訪問記」(船戸洪吉『画壇』より)
……「ガンさんが来てネ」と、やや昂奮した口調で内田巌が訪ねて来たことが語られた。終戦後はもちろん、ずいぶん暫く会わなかったガンさんであったから、よく来たね、と藤田は大喜びで部屋に招じ入れた。ちょうど食事時だった。ガンさんをご馳走しようよ、と藤田は自転車に乗って出かけ、江古田の懇意な魚屋から鮪のどてを特別に譲ってもらい、ニコニコして帰って来た。器用にそれを刺身に作り、わさびまで添えて、さあガンさん一杯飲もう、と内田に笑いかけた。ところが当のガンさんの表情はさっぱり冴えない。ついには大好きな盃を置くと、
「実は……」と切り出した。話は、日本美術会の決議で藤田嗣治、つまり貴方を戦犯画家に指名、今後美術界での活躍は自粛されたい、というのであった。今日はそれを日本美術会の書記長として通知にきた。
「バカにしているじゃないの、貴下は、戦争中記録画により軍国主義を、って書付けみたいなものを持ってきてね、それなのに藤田ったら人がいいもんだから、自転車で鮪なんか買いに行ったりして……」
 まったくの悲憤慷慨だったが、玄関のコンクリートに一時間余りも冷えた私の頭は、江古田への道を半白の髪をかきながら肩を落として行く内田巌の姿、新宿の闇市で焼酎を声もなく飲みこんでいる内田巌の姿ばかりが浮かんで仕方がなかった。[ 以下省略](夏堀著354 頁=船戸著70 頁)

藤田嗣治直話(夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論』より)
 内田にこう言った。私は戦争発起人でもなく、捕虜虐待者でもなく、日本に火がついて燃えあがったから、一生懸命に消し止め様と力を尽くした丈けが、何が悪いのか判らぬが、私が戦犯と決まれバ私は服しましょう。死も恐れませんが、出来れバ太平洋の孤島に流して貰って紙と鉛筆丈け恵んで貰えバ幸です。と答へて後は一切その話は打ち切って、小竹町から駅迄自転車で出かけて何か買って内田に丈、私は酒は一口も飲まないから進めて話がいろいろはずんで来た。何んな事があっても私は先生を見棄てません。必ず私一人丈でお世話いたします。何うか先生、皆んなに変わって一人でその罪を引き受けて下さい。酒が入ってか内田は直ぐに泣く、涙もろい人だった。夜も更けて遅くなって、折柄降り出した雨に、私は内田に洋傘さしかけて提灯の火をたよりに小竹町駅迄送った。[以下省略](夏堀著355 頁)