稲葉真以(いなばまい) 光云大学教授
「再び9 月1 日を迎えた。遠く東の空を眺めていた父母や妻子がこの悲惨な報道にどれほど嘆き悲しんだことか。血に染まった造物主( 造化翁) の悪戯によって、在日同胞が何千人も罪もなく死んでしまった。我々はこの血のように赤い9 月1日を迎えながら、昨年のこの時のことを静かに思うと、暗涙が溢れ、胸がつぶれ何を言えばいいのかわからない」(「今日は9 月1日!」『東亜日報』1924 年9 月1 日、二面)
関東大震災から100 年目を迎えた2023 年、韓国では大震災の直後に起こった大虐殺をテーマとした学術大会や展覧会が多く開かれた。主なものとしては植民地歴史博物館の「隠ぺいされた虐殺、記憶する市民たち」、植民地歴史博物館と戦争と女性の人権博物館で同時開催された「Yellow Memory」展などがあった。日本でも「関東大震災、100年ぶりの慟哭 アイゴー展」が横浜のあざみ野ギャラリーで開催され(後にソウルでも開催)、映画「福田村事件」が公開され話題になったりもした。
筆者は歴史問題研究所の事業委員会でイベントの企画に携わっているのだが、2023 年の企画を協議する中で、研究所でも関東大震災大虐殺に関するイベントを検討することとなった。歴史問題研究所はその名の通り歴史学者による団体だが、美術を専門とする筆者としてはやはり美術展を行いたいと考え、平素より注目していた河専南と李純麗という2 人の在日朝鮮人女性作家の招待展を提案した。彼女らの作品を通じて、歴史的事件がいかに記憶され得るのか、またどのように記憶すればいいのかを探ってみたいと考えたのである。これまでも研究所では歴史学者と美術家のコラボレーションを行ったことはあるが、展覧会を単独で開催するのは初めてのことである。
周知の通り、1923 年9 月1 日、東京を中心とする関東地方で発生した大震災の混乱の中で「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という噂が広がり、官憲や自警団などによって多くの朝鮮人をはじめ中国人や日本人社会主義者、無政府主義者らが無残に虐殺される事件が起きた。特に朝鮮人の場合、正確な数はいまだ明らかではないが6 千人を超える人命が犠牲になったという。それから100 年が過ぎた今、日本では右傾化と歴史修正主義が蔓延するなかで大虐殺の記憶は忘却されている。小池百合子東京都知事は、毎年開催されている関東大震災朝鮮人犠牲者の追悼式への参加を拒否しており、また右翼やネトウヨによる在日朝鮮人に向けたヘイトクライムは深刻な社会問題となっている。
日本では9 月1 日は「防災の日」だ。この日は関東大震災にちなんで1960 年に制定されたのだが、ほとんどの日本人は単に災害に備えて訓練する日だと思っているだろう。そこには100 年前に起きた未曽有のジェノサイドについての記憶は存在しない。しかし在日朝鮮人の場合はどうか。河専南と李純麗は、9 月1 日を犠牲となった同胞たちに対する慰霊の日として記憶し続けてきた。展覧会の構成について3 人で何度もミーティングを重ね、在日朝鮮人の歴史及び集団的記憶、そして作家個人の経験をどのようにを構成し表現すればいいのかを話し合った。ここで私たちは作品制作にあたって過去の出来事、つまり大虐殺の単純な再現は避けるという点で同意した。またすべて新作で発表するという2 人の意気込みには、ただ圧倒されるのみであった。
長野県出身の河専南は朝鮮大学校師範教育学部美術科で西洋画を学んだ。彼女はインスタレーションとパフォーマンスを通じて、境界人としてのアイデンティティーを探る作品を発表しており、最近は韓紙と和紙という、日韓両国の伝統紙を使うことによってふたつの「故郷」の間で揺れる在日朝鮮人の姿を表現している。今回の展覧会で河専南は、ノクチョンによるインスタレーションに取り組んだ。ノクチョンというのは儀式などで使われる死者の魂を受け止める紙の装飾だ。従来のノクチョンは切り紙の方式で様々な文様(主に人の形)が切り抜かれるが、河専南は在日朝鮮人としての経験を込めた独創的なノクチョンを制作した。重要なのは安東韓紙と原州韓紙、そして自らが育った長野県大町で製造された松崎和紙を裏打ちして使用している点である。
<いいえ、韓国人です>は、韓国に来てから幾度となく訊かれてきた「日本人ですか?」という問いに対して河専南が答え続けてきた言葉だ。イントネーションのためにしょっちゅう日本人に間違えられるという河専南は、関東大震災の時に朝鮮人であることが発覚しないように口をつぐんだ先祖たちと正反対に、「韓国人(朝鮮人)」であることを強く主張している自分を発見したという。
中でも観覧者の胸を打ったのは、<おばあさんの手紙>だ。4枚の紙で構成されたこの作品は、在日一世の外祖母が孫娘の河専南にお小遣いをあげる際に書き付けたメモを再現し、大町から眺めた山々と構成したものである。日本語と朝鮮語が混じった短い文章はすべてハングルで書かれている。これは日本語を十分に学ぶ機会がなかった在日一世によくあることだそうだが、短い手紙の中に一人の在日女性の人生が感じられる作品となった。
他にも韓国(K) と日本(J) の伝統的な文様の中に見出した多くの類似点を融合した<文様2023 K とJ>シリーズ、朝鮮学校の学生が使うユニークな言葉である<お腹すいたイムニダ>など、総39 点の作品が構成され、ギャラリーにノクチョンの森が創出された。河専南はまるで修行のように一枚一枚丁寧に紙を切り抜くことによって、過去と現在、韓国と日本、そして自ら経験を結びつけたのである。
東京出身の李純麗もやはり朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した作家である。日本で活動をしていたころには社会から疎外されている人々をテーマに描いていたが、韓国に拠点を移してからは人と人の関係性を形象化する抽象画を発表している。彼女は関東大震災というかなり重いテーマの本展にあたっていろいろ悩んだ結果、自分の家族史を振り返ることにした。実際のところ李純麗は自身の先祖が実際に関東大震災を経験したかどうかについてはっきりとは知らなかったという。大震災発生時に祖父母たちはすでに日本にいたのだと漠然と思っていたのだが、両親に尋ねたところ当時はまだ日本に来ていなかったことが判明した。両親の話から改めて先祖が歩んできた波乱万丈の人生を詳しく知ることとなり、祖父母そして外祖父母四人の「肖像画」を描くことにしたのである。
ところで李純麗の肖像画には人物はほとんど登場しない。彼女がキャンバスに描き出したのは祖父母たちとの記憶の軌跡である。朝鮮大学の理事までしながら北朝鮮に渡って他界した母方の祖父を描いた<外祖父 1921>。絵のモデルをよくしてくれて、最も親しく交流した<祖母 1928>。唯一顔が登場する<外祖母 1925>は、若くして亡くなったため会ったことがない母方の祖母の写真を基にして描いたものである。題名に必ず登場する数字は祖父母たちの生年を意味している。
李純麗は近年、主に墨と黒のアクリル絵の具を使用した白黒のモノトーン作品を発表しており、今回もまた黒い絵で統一した。長年書道をたしなんできた李純麗にとって墨は馴染み深い素材なのである。興味深いのは墨を染み込ませるためにキャンバスの裏側を表にして使用している点だ。これは墨の浸潤のためであると同時に「裏側」は在日朝鮮人を象徴してもいる。画面に描かれている黒い襞は使い捨ての黒いレジ袋がモチーフとなっている。物を運ぶのに使われる黒いビニール袋は、李純麗にとって人と人をつなぐ関係性を象徴するものであり、ある意味で記憶をつなぐ媒体として解釈することもできる。
先祖を描いた作品の中に一点だけ作家自身を描いた<私1977>が展示されていた。この作品は100 年にわたる家族史の延長線上に立っている、今・ここの「私」なのであり、在日朝鮮人の記憶を媒介する作家、李純麗の存在そのものだと言えるだろう。
展覧会の会場となったのは仁寺洞に位置するオルタナティブ・スペース、ナム・アート。ここはオーナーであり美術評論家でもある金鎮夏氏によって、民衆美術を中心とした企画展が行われている稀有なギャラリーである。ナム・アートは基本的に貸館は行わないのだが、偶然空いていた時期に借りることができたのも幸運だった。
オープニングには二人の作家によるトーク、また付帯行事として、金剛山氏による関東大震災大虐殺に関する講演を行った。関東大震災大虐殺で博士号をとったばかりの金剛山氏の講演には多くの聴衆がつめかけ、人々の関心の高さを感じた。一方、河専南と李純麗は2 週間にわたる会期中ギャラリーに日参し観覧客に作品の説明をし続け、彼女らの話を聞いて在日朝鮮人の歴史や実情を初めて知る者も多かった。近年韓国では、ドキュメンタリー映画の公開などで在日朝鮮人に関する関心が高まっているとは言え、実際のところよほど関心がない限り、在日朝鮮人、ましてや関東大震災の虐殺について詳しく知る者はほとんどいない。そのような状況の中で「9 月の記憶」展に訪れた観覧客たちにとって、2 人の作品に触れたことには大きな意味があったのではないかと考える。
河専南と李純麗は本展を通じて100 年前の9 月の悲劇と記憶を、自らの経験を通じて再構成した。人種差別、ヘイトクライム、戦争と大虐殺のニュースが毎日のように流れている現在、両作家の作品が投げかける声は静かに重く響いたのではないだろうか。何よりも筆者自身、本展を作り上げるにあたって両作家から多くのことを学ぶことができた。2 人に改めて感謝したい。
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