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首藤さんと私

宮田徹也(みやた・てつや)

 2023 年4 月12 日、首藤教之が逝った。90 歳だった。
 首藤さんとは2006 年、ノー・ウォー美術家の集い横浜のパーティで初めてお目にかかったと記憶している。修士課程を修了し当ても無く彷徨っていた私は、2004 年に池田龍雄と出逢い戦後美術や暗黒舞踏のアーティストの紹介を受け、小さな雑誌や展覧会のパンフレットに批評を書きはじめていた。2006 年とは、横浜市芸術文化振興財団(当時)が運営するZAIM のアルバイトと、横浜の専門学校の非常勤講師、週刊新聞「新かながわ」での展覧会評等が始まったのであった。
 同時に、首藤さんの紹介によって日本美術会と繋がり、『美術運動』のバックナンバーのスキャンが完成し、ジャスティン・ジャスティさんと研究会を発足、2011 年に東京都現代美術館で研究の成果を発表、2021 年には国会図書館が所蔵していない創刊(1947年)から85号(1968 年)までの復刊を鳥羽耕史(早稲田大学教授)さんの紹介により、三人社が果たした。一連の活動は全て首藤さんのお陰である。この場を借りて感謝申し上げます。

 私は2013 年に突然起こった、県が財政難を理由に文化施設を手放す「神奈川臨調」によって神奈川県立近代美術館が閉鎖するという事態に対して、問いかける講演会を一人で開催していたが、首藤さん、古沢潤さんの協力を得て、「鎌近残す会」の結成に繋がり、鎌倉の「ゆるこや」プチシンポジウムを隔月で開催、今日も続けている。「新かながわ」や「しんぶん赤旗」で、日本アンデパンダン展展評や首藤さんの取材記事を投稿した。
 首藤さんは一人の画家として活動していただけではなく、デザイナーは勿論だが、司会やリーダーというよりもファシリテーター的な役割を果たしたのではないだろうか。つまり、多くの人々の意見を聞き、まとめ、発言を促すような人物であった。言葉を話すのも、書くのも巧かった。2016 年には『伝言ノート』(A5、168 頁、私家版)を刊行した。展覧会、海外遊学、戦争、歴史と様々な想いが込められている。出逢った頃から最後までの気さくな雰囲気は一貫していた。それは私に対してだけではないだろう。

 本書にある略歴から、部分引用する。首藤教之(しゅとう・のりゆき)。「1932年、福岡県福岡市に生まれる。1945年6 月に米軍福岡空襲、被災。1951年、大分市内の喫茶店で初個展。1958年頃から岡本太郎・阿部公房・武満徹らの「現代芸術の会」の講座に通う。1960 年、この頃初めて政治デモ・集会などに参加。1963 年頃、日本アンデパンダン展、日本美術会の存在を知る」。
 「1965 年頃、日本美術会に入会。以後日本アンデパンダン展、日本美術会展、各地の平和美術展に出品。現在まで続く。理論シンポジウムなどに参加、機関誌編集・発行などの活動に参加。1970 年代から現在まで個展11 回、三女亜由子と親子展2 回。1970 年代、「明日のデザインを考える会」で活動。宣伝・出版デザインで90 年代まで活動。1980 年代以降、多くのグループ展に参加。日本美術会で2000 年以降、機関誌部長、常任委員長、会代表など歴任」。
 ここに記されている通り、首藤さんは様々な状況に興味を持ち、実践した。単に描くだけではなくインスタレーションを行い、パフォーマンスを支持した。その広い活動は、作品にも反映している。首藤さんが制作する作品はピンクや黄、緑がふんだんに盛り込まれ、描かれる対象もまた乗り物や生き物、家といった事物から、サーカスや町の様子、空襲などの現象に至り総てが、子供が描く絵よりも純粋に描き込まれていた。
 それは首藤さんが周りを観察しながら描いた結果ではないかと、私は思っている。首藤さんは自分の描きたいことだけ考えていたのではない。または、売れそうな絵を目指したのではない。様々な人間の立場になり、どうしたら作品を見ることが楽しくなるのかを前提に、制作を続けてきたのではないだろうか。作品を見ることが楽しくなれば、購入するだけではなく、我々は自ら描き始めるのである。そして、楽しさの輪が広がる。 私は京橋・ギャラリイKから企画を依頼され、「その時とその場所から」(2023 年1 月30 日- 2 月4 日)を実現した。タイトル通り、異なる活動をするそれぞれの発信を束ねてみた。大串孝二、加藤史郎、斉藤真起、関谷あゆみ、本多裕樹、諸星浩子が参加した。私は起案時の2022 年10 月に、首藤さんに連絡した。「体調不良」と答えた首藤さんに対して、「だからこそ元気を出す為にやりましょうよ」と私は懇願し、参加が実現した。会場に首藤さんは来れなかったが、作品は好評で展覧会は大成功であった。
 娘の今村桃子さんによると、2023 年3 月から4 月にかけての「第76 回日本アンデパンダン展」の搬入は、首藤さん自らが行えたという。最後の最後までアンデパンダンの「独立の精神」を、首藤さんは体現したのである。このような首藤さんの活動を、過去の遺物としてはならない。我々もまた首藤さんの意志を継ぎ、戦争のない世界、権威ではない未来輝く術の美しさと喜びを伝え続けなければならない。


宮田徹也(みやた・てつや)
横浜の人。1970 年生まれ。日本近代美術思想史研究。
岡倉覚三、宮川寅雄、針生一郎を経て敗戦後日本前衛美術に到達。
ダンス、舞踏、音楽、デザイン、映像、文学、哲学、批評、研究、思想を交錯しながら文化の【現在】を探る。