森田義之(もりたよしゆき) 美術史
名品《春雪》と出会う
これまで見る機会のなかった中谷泰(1909-1993 年)の遺作《春雪》(1962 年)が、宇都宮市の栃木県立美術館で開催中の「春陽会誕生100 年 それぞれの問いーー岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ」(2024 年1 月13 日~ 3 月3 日)に出品されていると知り、小山市在住の画家小久保裕氏と連れだって見に行ってきた。
“出色の名品”という前評判に違わぬすばらしい作品である。五十代はじめの円熟の頂点に達した中谷芸術のエッセンスが集約されており、完璧とも言える高い完成度と「古典的」な風格、深くて清澄な抒情をたたえている。古来からの「気韻生動」という言葉はこういう作品にあてはまるのか、とひとり感動をかみしめていた。
分析的に見れば、幾何学的骨格を秘めてたたずむ大きな二つの鉱山とその麓の家々のフォルムが、ペインティング・ナイフを巧みに用いた薄塗りの色面の反復と水墨のようなやわらかいぼかし、見えかくれする繊細な線や色斑によって生み出され、彩色面から見ると、白-灰-茶- 薄緑-
ピンクなどの微妙にくすんだ諸トーンのデリカティッシモな組み合わせと音楽的転調によってあらわされている。おそろしく敏感なコロリストの感性と研ぎすまされた鋭い造形的知性が一分の隙もなく融合され、この画家の徳性ともいうべき高い絵画的品格が香り立っているのだ。
中谷芸術の意義と功績
近代日本の美術史のなかで最も古い歴史をもつ美術団体のひとつである春陽会において、「春陽会の子」としてほぼ独学で画家となり、半世紀以上にわたって会の指導的画家として活動してきた中谷泰は、戦後は、画壇の民主化と芸術を通じての平和への貢献を標榜する日本美術会や美術家平和会議の一員としても大きな存在感を示してきた。
1950 年代から1970 年代にかけての画歴の最盛期においては、人間の姿を消し去って廃鉱や工場、瀬戸の陶土採掘場を主題化するようになり、そのなかから中谷芸術の代名詞となる「陶土」や「常滑」のシリーズが生みだされた。
「陶土」シリーズは、戦後洋画史のひとつの到達点をしめすモニュメンタルな作品群であり、実風景から出発して種々の周到な再構築の過程を経て、人間の労働が刻印された人工的=有機的な大地の空間を、やわらかな大気や光とともに詩情ゆたかに表象した、人間像なき叙事詩といえるものである。《春雪》もそのひとつである。
1971 年には、洋画壇の重鎮として、野見山暁治氏の強い要請により東京芸術大学絵画科(油画専攻)の教授に迎えられ、6 年間指導に当たった。
1993 年5月31 日、84 歳で死去。その5 年前の1988 年4月と、没後2013 年10 月- 12 月には、故郷の三重県立美術館で2 度にわたって大規模な回顧展が開催された。また、2022 年7- 8 月には、戦中戦後に中谷から絵画の指導を受けた童画家いわさきちひろとの二人展『いわさきちひろ展ー中谷泰を師として』が開催され、盛況を博した。
『中谷泰画文集+アーカイブ』の基本構想と出版の意義
今年2024 年は、中谷泰が死去してからちょうど30 年目にあたるが、戦後の洋画史に大きな足跡をのこし、その作品と人柄が多くの人から敬愛されてきた中谷芸術の記憶と存在感は、時間の経過とともにしだいに薄れつつある。
そうした流れを食い止め、中谷芸術の魅力と価値を永く後世に伝え継承するにはどうしたらいいか、という議論が芸大や春陽会、日本美術会で氏の謦咳に触れてきた人たちのあいだで湧き起こり、野見山暁治氏の強い励ましのもとに2021 年春に画文集の出版にむけての準備が始められた。
3 年にわたる準備とリサーチをへて、2023 年 4 月に『中谷泰画文集+アーカイブ』(仮称)の出版発起人会が立ち上がり、画像データと各種の文字資料の収集、パソコン入力などの作業が少しずつ進められてきた。また出版費用の一助として鹿島美術財団への助成申請もなされた。
『画文集』の出版にいちはやく賛同され、完成を待ち望んでいた野見山暁治氏は、残念ながら2023 年6 月に亡くなられたが、現在、出版発起人会は次のようなメンバーで最後のつめに入っている。
入江 観(画家 春陽会)
速水 豊(三重県立美術館館長)
松本 猛(いわさきちひろ美術館常任理事)
南口清二(画家 二紀会)
小林裕児(画家 春陽会)
小久保裕(画家 独立美術協会)
阿部正義(画家 職場美術家協議会)
冨田憲二(彫刻家 日本美術会)
長田謙一(美学 美術理論)
森田義之(美術史)
『中谷泰画文集+アーカイブ』の内容は以下のとおり
回想(野見山暁治/ 辻惟雄)、森田義之「松阪が育んだ芸術家中谷泰」田中善明「画家中谷泰の魅力」。
- 【一章】中谷泰の主要な絵画作品(全体と部分)を高精細画像で呈示する。
- 【二章】青年期の未発表のエスペラント語書簡(翻訳)と解説
- 【三章】師木村荘八についての随想、浅井忠と日本の近代洋画の展開への深い理解を示す針生一郎との対談など。
- 【四章】(油絵技法の話)。戦時中の絵具製造の著しい劣化を証言する『みずゑ』(昭23年)収録の貴重な座談会「国産絵具と油」、昭和20 ~ 30 年代の『美術手帖』に連載された油絵具と溶き油の実践的研究に基づく技法論。〈解説〉修復・技法史の研究者による中谷作品のファクチュールの分析と解説、ミクロ写真を付す。
- 【五章】(知友回想)。正宗得三郎、いわさきちひろ、岡鹿之助、石井鶴三など。
- 【六章】(美術運動のなかで)「アンデパンダン展に思う」「平和美術展30 年の歩みから」ほか。
- 【七章】(芸大教授時代)「楽しかった芸大時代」「芸大退官記念展」。
- 【八章】(旅と風景)満洲、ヨーロッパ、ベトナムでの写真とスケッチ。
- 【九章】(中谷泰論アンソロジー)松谷彊、土門拳、陰里鉄郎、毛利伊知郎、森本孝、河北倫明、田中譲、熊田真幸、針生一郎などによる中谷論を集成。エピック
コメントをお書きください