東京大学大学院・在日朝鮮人美術史研究 白凛(ペク・ルム)
昨年4月、東京都現代美術館にてシンポジウム「『美術運動』から読むアンデパンダンの時代」が開催されました 。ご協力くださった方々に改めて感謝申し上げます。また、このような未熟な研究者をいつも暖かく見守ってくださっている<美術運動を読む会>のメンバーにもこの場をお借りして感謝申し上げます 。
執筆に際してテーマはご自由にとしていただきましたので、この文をある一人の女性(Kさん)へのメッセージから始めたいと思います。
Kさんへのメッセージ
Kさんとの出会いはシンポジウム終了直後のことでした(名前も連絡先もお伺いせずに別れてしまったため、ここでは「Kさん」とします)。シンポジウム閉幕後も緊張のためなかなか動悸がおさまらず、それを鎮めるために、私は目の前の筆記用具を整理していました。そこに声をかけてくださったのがKさんでした。
ゆっくり近づいてこられたKさんは、小さな声で「北のほうの美術は今どのような状況なのでしょう」とたずねられました。「北」とは朝鮮民主主義人民共和国(以下「朝鮮」)のことです。私の研究範囲が日本と大韓民国(以下「韓国」)と朝鮮に及んでおり、シンポジウムでもそのことに言及したところでした。朝鮮に対する日本でのイメージはとても良好とはいえないため、「どうでしょう」とあいまいお答えしました。するとKさんは「姉の息子が北で美術をしていると聞いたものですから」とおっしゃいました。この言葉に私は、「ああ、このかたも私と同じ在日朝鮮人だ」と思ったのですが、それは全くの早合点で、その後の話からKさんは日本人であり、Kさんのお姉様は日本人として朝鮮に渡ったということがわかりました。
ご存知のように、第二次世界大戦終結後の日本には約200万人の朝鮮人がいました。その約4分の3は日本の終戦直後に朝鮮半島に戻ったのですが、約60万人は様々な理由で日本に残ることになりました(その子孫が今日の日本にもおり、私もその一人です)。1948年の済州島事件や1950年に始まる朝鮮戦争などの痛ましい消息を聞きながら、朝鮮半島の平和を海を越えた日本から願うことしかできなかった朝鮮人に、転機が訪れたのは1959年でした。この年の12月から朝鮮への「帰国船」が新潟を出港するようになったのです。「帰国船」に乗って朝鮮に渡った人は9万人を超えました。この中には朝鮮半島の南部に故郷があるにもかかわらず北部に「帰国」した朝鮮人もいました。この時期の朝鮮人にとっては、植民地統治終了後70年になりなんとする今も、朝鮮半島の統一がなされていないことなど思ってみなかったことでしょう。この「帰国者」の中には、日本に渡ってきた朝鮮人と結婚した日本人女性も含まれていました。Kさんのお姉様はこの日本人女性の一人だったと考えて間違いないと思います。
Kさんの甥御様は朝鮮で美術をしている。私に声をかけてくださったKさんの声が、とても小さかった理由を理解した私は、Kさんには格別な心配りが必要だと思いました。しかし、「朝鮮にも美術家はたくさんいるし、この微力な研究者に何ができるだろうか」と思った私は、Kさんと私の間に横たわる「他人」という壁を、その時あえて取り払おうとしませんでした。「目の前の女性の住所を聞いたところで、電話番号を聞いたところで、名前を聞いたところで、私が何をできるわけもない」と思ったのです。ただ、Kさんのお姉様の旦那様が朝鮮で指揮者として活躍しているという話題が出て、この指揮者のお名前(ここでは「Rさん」とします)だけは書き留めました。
シンポジウムが開催された時、私は二週間後の朝鮮旅行を控えていました。前述の「帰国船」で義母(夫の母)の兄弟が朝鮮に渡っているのですが、2011年の年初に結婚した私を、義母が「朝鮮の親戚に紹介したい」と言ってくれたのです。
「…そのお姉様の旦那様が指揮者なのですって」。義母と一緒にトランクに荷物を詰めながらKさんのことを思い出し、そう言った後、指揮者の名前を思い出そうとしていた私に、義母が突然「その指揮者ってもしかしてRさんじゃない?」と言いました。「こんなことってあるのよね。Rさんは私の親戚よ」。感慨深げな義母の言葉に、Kさんを前に「私に何ができるわけもない」と「他人」を貫いた自分自身の行動に対して本当に深く後悔しました。簡単に整理しますと、義母の姪(義母の兄の娘)と、Kさんの甥御様(RさんとKさんのお姉様の息子さん)が御夫婦だということでした。Rさんは朝鮮では屈指の指揮者であり、「帰国」後は奥様(Kさんのお姉様)と来日したこともあるそうです。義母とKさんのお母様とは10年前までは連絡を取り合っていたとのことで、義母はすぐに連絡先のメモを探して電話をかけてくれましたが、残念ながらつながりませんでした。「なぜKさんの連絡先を聞かなかったのだろう」と思えば思うほど、甥御様のこのことを気にかけていらっしゃったKさんの顔が目の前に浮かび、私は自責の念でいっぱいになりました。
平壌に到着した日、宿泊するホテルのロビーで、義母の兄弟とその家族や親戚が私を出迎えてくれました。私の親戚は韓国にはいるのですが朝鮮にはおらず、ここにできた新しい家族との出会いに初めは緊張していましたが、我先にと結婚を祝ってくれる親戚たちの賑わいの中、数分の後にはすっかり打ち解けました。義母はそのあわただしさの中でも忘れずに、姪(Kさんの甥御様の妻)に東京のシンポジウムでの出来事を伝えてくれました。2、3日後にもう一度会う日には、夫(Kさんの甥御様)も同席することになっているとのことで、その言葉通りに3日後、私はKさんの甥御様と楽しい昼食の時間を過ごしたのです。彼は私に木版画をプレゼントしてくれました。現在Kさんの甥御様は「万寿台創作社」という、最高レベルの美術家たちが勤める会社で美術制作をしています。家族の輪の中で楽しくお話をするかたで、夫婦仲も睦まじく、息子さん二人もとても明朗で頭の回転もよく、元気な少年たちでした。出会えた嬉しさの一方で、残念ながらここでもKさんのご連絡先を手に入れることはできませんでした。
K様、この記事を読んでくださっていますか。シンポジウム当日は、お声をかけてくださりありがとうございます。K様のこの行動は、大変な勇気をふりしぼったものだったと思います。それにもかかわらずお名前も、ご連絡先もお聞きしなかったことをお許しください。大変後悔しております。我が家の壁に掛けてある甥御様の木版画を是非K様にお見せしたいです。躍動感のあるすばらしい作品です。その他お見せしたい写真、お伝えしたいお話がありますし、なによりももう一度お目にかかりたいです。K様のご質問に今ならお答えできると思います。ご連絡いただければ幸いに存じます。
在日朝鮮人の美術研究について
私は在日朝鮮人の美術の研究をしています。第二次世界大戦後の日本に約60万人の朝鮮人が残ることとなったということは前述しましたが、私はその中でも美術家として活躍した朝鮮人たちの足跡を追っています(年代の設定は1945年から1960年としています)。単に彼ら/彼女らの美術作品の造形の特徴について語るのではなく、彼ら/彼女らがどのような経路で日本に渡り、どこで美術と出会い、どのようにして技術を習得したのか、日本でどのような人生を送ったのか、そしてどのような美術制作を行なったのかについてできる限り詳細に調べ、大戦終結直後の日本の様子を在日朝鮮人の美術という側面からみつめ直そうとしております。
そこで基準となる資料が、シンポジウムでもご紹介しましたように、1962年に発行された『在日朝鮮美術家画集』です。在日朝鮮人の美術作品や活動の内容は、この画集が発行されるまで、『美術運動』を始めとする日本人が編集していた機関誌や雑誌に紹介されていました。この『在日朝鮮美術家画集』は、在日朝鮮人の手になる始めての画集であり、在日朝鮮人だけの美術作品と活動内容が収録されている貴重な資料です。
ある日、<美術運動を読む会>のメンバーの足立元さんが提供してくださった「日本アンデパンダン展目録」を精査していたところ、私が研究している朝鮮人美術家の名前が掲載されていることに気が付きました。1951年2月に開催された「第4回日本アンデパンダン展」から朝鮮人美術家の名前が散見されるのですが、回を追うごとにその人数が増え、とても興味深いことに1961年2月に開催された「第14回日本アンデパンダン展」の朝鮮人美術家の出品作品と、『在日朝鮮美術家画集』に収録されている作品が、多数一致していました。少し題が違っている作品もあるのですが、時間を置いて画面の手直しをしたり作品の題を考え直したりすることはどの美術家でもありえることだろうという点を考慮すると、一致する作品は少なくとも9点はありました。『在日朝鮮美術家画集』には箕田源二郎氏の文章が掲載されているのですが、「第十四回日本アンデパンダン展に於ける朝鮮人美術家の集団出品は強い印象を私たちに与えた」という文から始まっています。「第14回日本アンデパンダン展」の出品目録と『在日朝鮮美術家画集』を照らし合わせると当時の展示の様子を想像することができるという点をシンポジウムでご報告いたしました。
再会を願いながら
在日朝鮮人の歩みと美術作品は、二度の世界大戦と植民地支配、冷戦の対立構造の下で、移民として悲痛な生をくぐりぬけ、それでも希望を探し求めた人々の経験を物語るものだと考えております。これらを通して大戦終結後の在日朝鮮人社会、朝鮮半島、日本、そして広くは東アジア世界を考察したいと思っております。またこれまでの研究過程でお世話になったかたがたの生き方を伝え継ぐためにも研究を続けていこうと思っております。研究の過程で大戦と植民地政策、そして冷戦が、民衆文化や一人ひとりの生活に多大な影響を及ぼしたことを痛感する瞬間が多々あり、K様との出会いはそれについて改めて考えさせてくれました。再会を願いながらペンを置くことにします。
東京大学大学院・在日朝鮮人美術史研究 白凛(ペク・ルム)
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