未来のダダもまた三角の正札である

2011 東京アンデパンダン展会場
2011 東京アンデパンダン展会場

──反芸術とアーティスト・イニシアティブこそ、アンデパンダン展の本質

2012年秋にスイスのチューリヒに行った。ローマ帝国の徴税所が置かれて以来の長い歴史の町である。有名な聖母教会には、マルク・シャガール(1887~1985年)のステンドグラス(1969年)がある。1916年に世界的な反芸術運動「ダダ」が始まった土地でもある。ドイツ人作家のフーゴ・バル(1886~1927年)、ルーマニア出身の詩人トリスタン・ツァラ(1896~1963年)らが、チューリヒのキャバレー・ボルテールを舞台に、無意味な詩の同時朗読などの挑発的芸術行為を行ったのがダダの始まりである。

トリスタン・ツァラは「ダダ宣言」(1918年)において、「ダダ。この一言こそが諸概念を狩猟に導く」、「家族の否定を許す嫌悪から発したもの、それがダダ」などと述べた。わが国でも、1920年代前半に大正期新興美術運動(大正アヴァンギャルド)として、ダダの影響を受けた既成概念を覆す芸術活動が行われたほか、1960年代にも、米国の「ネオ・ダダイズム」(1950~60年代)の影響を受けて「反芸術」運動が興った。

 

第二次世界大戦後の日本では、まず「日本アンデパンダンは、まず「日本アンデパンダン展」(1947年、「日本美術会」主催)、「読売アンデパンダン展」(1949~1963年)が発足した。続いて、日本全国で「武蔵野アンデパンダン展」(1966年、「むさしの美術文化の会」主催)、「公募八王子アンデパンダン展」(1975年、「美術集団八王子アンデパンダン」主催)などアンデパンダン展が続々と誕生した。

 

1884年のパリのアンデパンダン展は、サロンから締め出されたジョルジュ・スーラ(1859~1891年)、ポール・シニャック(1863~1935年)らが点描法などの前衛作品の展示の場として企画し、後年、素朴派の巨匠アンリ・ルソー(1844~1910年)らも主な発表の場としていたのだが、これとはやや異なり、労働運動等に色濃く影響を受け連動していた日本のアンデパンダン展もまた、ネオ・ダダ(後述)をはじめ、当時のアバンギャルドな「反芸術」作品の展示の場となっていったことが興味深い。

 

このいわば「日本のアンデンパンダン時代」に活躍した、美術家かつ詩人の滝口修造(1903~1979年)は、1960年2月に行われた第12回読売アンデパンダン展の直後に同展に出品していた若手アーティストたちによって結成された「ネオダダイズム・オルガナイザー」(吉村益信(1932~2011年)、篠原有司男(1932年~)、赤瀬川原平(1937年~)、荒川修作(1936~2010年)など)の第2回グループ展に寄せて詩を書いた。曰く「ダダは諸君をくすぐるだろう やがてダダは諸君を通過し 諸君はダダを通過するだろう」。その時代におけるダダ的運動は一過性のものであり、若者こそがそのダダの原動力である。けだし、若者におけるダダもまた人生において一過性のものである、という趣旨である。

 

若者が既成の概念に抵抗し、打ち壊そうとする。新しい概念を提案し、イニシアティブを取ろうとする。それがダダイズムであり、また点描派によるアンデパンダン展の創始の本質でもあろう。アンデパンダン展を定義づける形式基準と看做される「無鑑査・無褒章・自由出品」は、むしろ新しい芸術を提案し、イニシアティブを取り得るように考案された「仕組み」に過ぎない。これまで概観した1884年から1960年代までの歴史は、こうした捉え方の妥当性を裏付けるものであるように見受けられる。

 

問題は、その後のアンデパンダン展の展開をどのように位置づけるかである。当初は既存の秩序へのアンチ・テーゼとして創始されたアンデパンダン展は、それを主催する協会組織により定期開催が維持され、いつしか「無鑑査・無褒章・自由出品のアンデパンダン展」という制度として確立されてしまった。このため、若い芸術家はアンデパンダン展を既存の秩序の一環とみなして、同質の企画を「ダダ」や「アンデパンダン展」という名称を用いず、別途の名称(例えば、「国立国」(2000~2009年)、「遊美」(2007年~、2012年から「見参」に名称変更))を冠して行うようになった。

 

1884年に創立されたフランスのアンデパンダン美術協会(独立芸術家協会、societes des artistes independants)は、今では毎年、パリのグラン・パレで、アンデパンダン展、コンパレゾン展、ル・サロン展などの合同サロン展「Art en capital」を開催している。独立芸術家協会の影響を受けて1930年に発足した日本の独立美術協会は、毎年、有鑑査・有褒章の公募展「独立展」を開催している。

 

こうしたアンデパンダン展のいわば「エスタブリッシュメント化」、硬直化など、会派を設けることによる弊害を避けるため、2000年代に産声を挙げた日本の新興アンデパンダン展(2009年:「横浜開港アンデパンダン展」、「東京アンデパンダン展」、2010年:「多摩アンデパンダン展」、「3331アンデパンダン展」、2011年「日本橋アンデパンダン展」)は、「会」という組織を設けないことが特徴的である。歴史上のアンデパンダン展の様に、点描法や素朴派、ダダ、プロレタリア・アート、反芸術といった、アバンギャルドな傾向の作品を多く展示する訳でもない。

 

また、新興アンデパンダン展では、「観客の参加」が主要テーマのひとつとなった1990年代以降の国際的な美術動向の流れも受け、展覧会の呼び物(アトラクション)のひとつとして、観客による人気投票を開催することが多い。そこで第1位となった展示作品の作家には、個展開催などの機会が用意されることが一般的である。これは観客の人気投票の結果であるから、公募展やコンペティションにおいて鑑査委員等の監査により決定される「大賞(グランプリ)」のような「褒章」ではないとして、無褒章という基準を緩やかに解しているということであろう。

 

これらの性格に鑑みるに、新興アンデパンダン展では、経済困難の中で、アーティストの自助・共助により「皆で発表する場を設ける」、「有望なアーティストには個展の機会を提供する」ことを主眼として開催されており、そこでのアーティスト・イニシアティブは、過去に見られたような芸術的イニシアティブというよりはむしろ、経済的イニシアティブとなっている。すなわち、歴史的なアンデパンダンにみられた、既存の「旧弊な芸術・社会秩序からの独立」という観点からいえば、現代の美術界の「商業主義からの独立」という面が強い。

 

下掲の「二十一世紀初頭のアンデパンダン展のための檄文」(出典:東京アンデパンダン展チラシ)は出展料さえ支払えば誰でも出展できるアンデパンダン展という展覧会形式を美術作家のサバイバル策として再活用しようと呼び掛けるものであり、上記のような傾向をよく表しているので、参考として掲載する。

二十一世紀初頭のアンデパンダン展のための檄文

 

何も新国立美術館で日本アンデパンダン展が開催されているからとか、横浜開港記念アンデパンダン展が行われたから、というわけではない。いまアンデパンダン展が必要だから開催されるべきである。アンデパンダン展とは、展覧会運営費としての出展料さえ支払えば誰でも出展できる無鑑査・無褒章・自由出品の展覧会のことである。公募展・団体展のように鑑査によって応募作品の三分の二が落選する展覧会や、ほとんどの作品が落選するコンペティションのようなものではない。

 

ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャックらによってアンデパンダン展が始められた一八八四年とは、世界は様変わりである。当時はサロンの鑑査員達によるアバンギャルドな作品の出展拒否が問題となっていたのだが、いま世界は、米国のサブプライムローン問題に端を発する、百年に一度という経済危機の只中にある。日本への影響は出始めたばかりだが、昨年第四半期の実質GDPは年率換算で前年比12.7%減少という惨状だ。それでも日本は世界の中では影響がもっとも軽い方で、欧米経済の悲惨は言うまでもない。

 

オリンピック選手でさえ企業からの支援を打ち切られるほどの不況の中で、美術界が活動を続けていくためには、昭和恐慌、証券不況、平成金融危機などの経験が役立つだろう。対応策はリストラ。日本も前回の不況では、百貨店美術館が軒並み閉鎖し、企画画廊の多くが不活発化ないし展示スペースを一時閉鎖、助成金の削減・打切りが当たり前となった。この動きを受けたアーティスト側の対応策がアーティスト・イニシアティブ(自主活動)であり、公共や企業、商業画廊に頼らない活動スタイルの推進であった。

 

そこではもはや、企業の、公共の受け入れるもののみを展示する、ということでなくてよい。画廊で売れるものを作って媚びる必要もない。サロンの保守的な審査を気にしたり憤ったりすることもない。自分が額に汗して稼いだお金で作り、展示する作品であるから、胸を張って飾ればよい。だからこそ、各人のやりたいことが存分にでき、前衛性が守られる。現下の危機さえもまたひとつの機会として捉え、しぶとく生き抜くのみならず、却って良い仕事をしていこうではないか。

 

このような論拠から、我々は世界的経済危機の渦中において、時代はアンデパンダン展を欲しているものと思料し、同志とともにここに組織していくものである。

 

平成二十一年三月吉日

東京アンデパンダン展 発起人 

深瀬鋭一郎

 

深瀬鋭一郎 (ふかせえいいちろう)

1963年大阪生まれ。1998年深瀬記念視覚芸術保存基金を設置し、現代美術の収蔵・貸出・展示を開始。ピカソ財団、国際交流基金、上海万博などの依頼で数多くの展覧会・イベントを組成。2008年モンブラン国際文化賞を受賞。