よく、「この彫刻は生きているようだ」と言ったりするが、それは人間や生きものをそっくりに説明できているという意味ではない。それは、まるで細胞が脈打っているごとく命の輝きを放っているという体感だ。そしてその輝きは彫刻の内側に流れる生命エネルギーのゆらぎから発せられている。人体彫刻だったら、足の指先から頭のてっぺんまで途切れることなく流れる生命エネルギーのゆらぎの姿。自然界のものたち、風にゆれる木々、大地を流れる川、連なる山脈、オーロラや稲妻がキラキラと輝いているのは、それらが命のライン、ゆらぎそのものだからだ。
2011年3月11日、あの日福島県いわき市の海沿いにあった我家は、アトリエ、作品達、そして愛犬ユイと共に津波で崩壊流出してしまった。その日私達家族は、珍しく高校生の娘も連れ立って海から離れた街場に出かけていて無事だった。その晩は友人のギャラリー前の空き地に車を停め、家族3人積んであった搬入用の毛布にくるまり夜を明かした。翌日、カーナビのテレビで30km先にある福島第1原発の爆発を確認した私達は、ギャラリーオーナーの友人と「必ずまた生きて会おう」と固い握手を交わし、新潟に向け車を出発させた。その2ケ月半後、私達は奈良県に避難移住することになる。
震災後の身辺整理や様々な手続き、慣れない関西での生活の立ち上げ、その間もがむしゃらにこなし続けた制作と発表、気付くと2年半が過ぎていた。
2013年の秋、お世話になっている大阪のギャラリーから「安藤さん、何か展覧会のアイデアありませんか?」と持ちかけられた。私はいわきの作家12名、関西の作家10名、関西に避難移住した作家3名、による合流展を企画することにした。最悪の状況の中にも光は見つけられるはずという想いを込めた「光の降りる時代展」。
25名の作家のうち24名は直接本人と面識があったが、唯一、京都の彫刻家ノブコ・ウエダさんとは1度もお会いしたことがなかった。ノブコさんとは震災後始めたフェイスブックを通してネット上で知り合いになっただけで、私の方から唐突に「展覧会に出品しませんか」とお誘いしたのだった。
搬入の日、作家達が集まってきた。顔見知りたちと挨拶を交わしていると、ノブコさんが入ってきた。「初めまして、ノブコ・ウエダです」、「あ、初めまして、安藤です、この程はありがとうございます」と握手を交わした。
ノブコさんはさっそくご自分の石彫を台の上にセティングしたのだが、突然「安藤さん、これも出品してもいいですか?」と言って、1冊の手作りの版画集を取り出した。ノブコさんは震災後被災地を回り、津波の被害にあった家々を写真に収めていた。700枚ほどを撮り、その中から20枚を版画にし、まとめたのだった。私は「どうぞ、ぜひ出品してください」と言って、その版画集を手に取った。表紙を開くと、なんとそこには津波で流された我家の姿があった。ページをめくると20枚の版画のうち4枚が我が家に関するものだった。「ノブコさん、これ我家ですよ!」と言うと、ノブコさんは一瞬何が起きたのか分からない表情になり、「私は被災地を回って千枚近く写真を撮ったんですよ、その中でこの家が一番印象に残っているんです、周りにヒマワリがいっぱい咲いていて・・・、家の持ち主が生きていたら写真を手渡したいと願っていたのです」と言って静かになった。ノブコさんは帰りの電車の中で1人泣いたらしい。
こうしてその版画は2年以上の年月をゆらぎながら旅を続け、無事私達家族の元にたどり着いた。
2011年3月11日、あの日発せられた沢山のエネルギーは、川の流れのように大きくゆらぎながら今もこの時空の中を流れている。
地震、津波、原発事故による膨大な破壊、その後のこの国の歪んだ対応、そんな中でさえ、沢山の愛のエネルギーが命の輝きを放ちながら約束された着地点を目指し旅を続けている。
そんなエネルギーの流れに出会った時、私は命のゆらぎのラインを内包した美しい彫刻を目の当たりにした時と同じ感動に包まれる。
安藤栄作 彫刻家
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