はらたはじむは、私の中学時代の美術の先生でした。私は彼の正規の授業は受けて来なかったが、卒業後も私が絵の道を志した関係もあって、深く交流して来ました。私は、高校卒業と同時に絵を勉強するために上京してしまいましたが、はらたさんから上京中の鈴木啓之さん(同じ中学の大先輩、民美の一期生)を紹介され、鈴木さんの計らいで上原二郎さんのアパートに入居した縁で、その後もはらたさんとの交流は続きました。私は当時、はらたはじむを日本を代表する画家だと考え、深く尊敬していました。しかし三〇年前頃に感情的にぶつかって私が彼に、絶交宣言をしました。
彼に対する不信感は最近まで消えませんでした。しかし自分自身を振り返ると私の中にはらたさんが深く根を張っている事に気がついたから「はらたはじむ」に向き合う決心をしました。はらた芸術を考える時避けて通れない油絵作品があります。この論では、その作品を「幻の名作」とします。
私がその作品に初めて出会ったのは、四〇年以上昔で、写実的な世界しか理解出来ずにいた青年前期です。場所は昔の愛知県美術館でリアリズム展の会場だった気がします。美術史に疎かった当時の私には、とっても不思議な作品でした。鋳物工場の現場労働者が工場内に佇んで休憩している情景でした。50~60号位の縦向きでした。暗くて、重っ苦しい色でしかも人間が直線的に表現された世界は、私には理解不能で異様な感じでしたが、妙に迫力を感じていました。その数年後に同作を再度の違う会場でも見せられたから、長い間忘れられずに今日まで記憶に残った気がします。ご遺族と連絡が取れば、「幻の名作」にはいつでも再会は叶うと思い込んでいました。これが、新美さんの依頼を引き受ける動機でした。ご長男に連絡して事情を話して、「幻の名作」を一緒に探すために、数十年ぶりにはらたさんの旧宅を訪ねました。しかし期待の作品は発見できず、せめて写真でもと考えて遺品の山の中を二人で探しましたが、幻は本当に「幻」かもしれない、本当に見たのだろうか?とすら考え始めました。はらたさんは「幻の名作」の一切の痕跡を周到に抹殺したとしか考えられません。今改めて考えるとドイツ表現派から影響されたか、その辺りの作品を下敷きにした実験的な作品だったと推測します。
しかしこの作品はどこにもありません。どなたに訊ねても、記憶にないと言う返答しかありません。塩沢哲弥さんに☎して「幻の名作」の話をした所、昔の日美の画集に掲載されている作品ではないか?それを郵送するという有り難い申し出でした。しかし結果は私が記憶する「幻の名作」ではなかった。何故?それ程こだわるかと言えば、その作品を境にして、はらだ芸術は「創る絵作り」から「写実的な現実の表現」に舵を切り、皆さんがよくご存じの「名古屋シケイロス」の方向を選択した。つまり、それは画家人生の中で最も重要な分岐点に位置する作品だったと考えたからです。だとしても、彼の情熱と精進は井上長三郎氏を驚嘆させた描写力のレベルにまで達しました。彼が画家人生の中で最も強烈に輝いていた時代です。それでも思うのです。シケイロスの道ではなく「幻の名作」の道を選択していたら、はらた芸術は稀有な発展を遂げたに違いないと。絶頂期の彼は肌の湿り気まで描写出来た画家ですから。
さらに忘れてならない事は、その時代に はらたさんには強力なライバルがいた事です。坂野耿一さんが健在健筆だった。両者はまるで違うタイプでありながらそれぞれの道を熱く、厳しく探究していた。坂野さんの「ろうそく」の小品を故・林文雄氏は「珠玉の名品」と絶賛しました。はらたさんは自由美術展、グループ8月展、リアリズム展と精力的に制作、発表をしていた時期と重なります。しかし最大のライバルだった坂野さんは早逝してしまい、グループ8月も中心メンバーでありながら自ら退会してしまいました。自由美術が最後の砦だったが、彼は孤独だった気がします。
東京にも名古屋も彼が活躍する席はありませんでした。団体の中で彼は迷子状態だったと思う。彼の絵画世界を心から、本音で支持する人が彼の周辺から殆ど消えていました。と時を同じくして彼の持ち前の「怒り」が生み出すパワー、魅力が後退してステレオタイプ化して行った晩年の作品群は寂しいが、それでも私の心は、はらたはじむは「未完の大家」だったと叫んでいます。
最後に若い人と自分で若いと感じている人のために彼のエピソードを紹介してこれをエピローグとします。
三〇年前頃、電車の中で、
吊革につかまっての彼と二人の会話。
問「私は今、○○を模写していますが、はらたさんは模写をどう考えますか?」
答「ぼくは毎晩、北斎を模写しているよ」
梅村哲生(画家)
コメントをお書きください