南国沖縄にも北風が吹きはじめた11月16日午後8時、テレビは一斉に翁長雄志知事候補の当確を報じた。「海にも陸にも新基地は造らせない!」“沖縄県民の長い血と汗”命を守る闘い、を想い、涙があふれ出ました。
私が夫の故郷、沖縄を初めて訪ねたのは1969年の真夏、沖縄は日本復帰運動に燃えていました。本島にも離島の島々にも「祖国復帰!日本の平和憲法の下に」などのノボリや横断幕が立ち並んでいました.
那覇の農連や公設市場では、魚や野菜を一杯入れたタライやバーキを頭にのせて、威勢よく売り歩く女たちのたくましさ、そのゆれるフォルムに魅せられ、夢中になって走り描きした何冊もの画帳、これは私の一番の宝物です。
1971年の11月、私達4人は東京狛江市から、沖縄はここ首里に転居、美術教室を開いて活動開始。1973年5月15日は沖縄の施政権が米軍から日本に返還され、くらしは大きく変わりました。沖縄女流美術展の前身である「郷土の女性美術展」(デパート共催)を開き、1982年には「反核・沖縄平和美術展」を那覇市の力を得て開催。度々思想的バッシングを受けましたが、女流美術展は今年40周年記念展を終え、沖縄平和展は32回展を終えました。
初期、女性群像ばかり発表していた私は“アンマーの瑛子”と親しく呼ばれていましたが、度々、戦跡めぐりをする機会があり、ガマ(自然の洞窟)での惨劇、汚辱に満ちた沖縄戦を知るにつけ「描かねばならない」と言い聞かせてきました。実体験者でない私に必要なことは、出来る限り“歴史の現場に立ち、想像力を高める”ことでした。だが、私も間もなく80才、人生の最後をどう描くか、まだまだ迷える子羊です。
2013年の春浅い頃、丸木美術館の理事長さんから「貴方の個展をやりたいが」と、お電話があり、私は即座に「ハイッ、やらして下さい!」と答えました。続けて理事長さんは「丸木美術館は貧乏なので作品の往復の輸送費、保険金など莫大な費用は、丸木美術館の全国の支援者に訴えて実現する計画だ」とおっしゃいました。
名も無い絵描きにとって、こんな有り難い嬉しい話はありません。すぐに丸木美術館から計画書や資料が送られてきました。私も身内や友人に手紙を書き、協力をお願いしたり忙しい日が続きました。
いよいよ4月18日、展示作業、早朝から参加されたボランティアの皆さんの手際のよさ、館とのチームワークは見事でした。入口のホールには暖色系の明るく元気な市場の女性やまつりの絵、辺野古のアンマーの群像などを展示、メインホールには焦土シリーズ、イラク、アフガンなど戦火に苦しむ無辜の民、沖縄戦を越えて再生する「転生」、「海礁」など、正面の広い壁には「黙示録・沖縄2006」、裸婦の群像「いのり」をかけ、最後の壁には、硬質な画面に牛骨や鉄条網を掘り込んだ「沖縄島-断章」を中央に、左右に「オモニ」、「絶唱」でしめくくりました。広い静寂な空間に、絵たちが活き活きと喜んでいるようでした。
初日、4月19日は、沖縄県立美術館の豊見山愛氏と私の対談、質問者への作品の解説・時代背景など。5月5日の丸木美術館の開館記念日の講演は、フリージャーナリスト外岡秀俊氏の講演「沖縄の今、不屈の美-宮良瑛子の作品によせて」とあり、大変おどろきました。外岡氏は海外でも活躍されたジャーナリストで、沖縄の歴史、文化を深く研究されていて感動しました。
アトラクションのギターや沖縄の歌とカチャーシーで満席のお客さんと共に楽しみました。
こうした催しの都度、多くの記者さんのていねいな取材を受けましたが、こらは反戦平和、反原発を訴え続けた丸木位理、俊夫妻の意志を継ぎ、地道に活動して来た美術館スタッフへの厚い信頼感によるものと思います。
また、NHK沖縄放送局が「女性の姿で描く沖縄戦」と題して、6月23日「沖縄戦没者の慰霊の日」に全国放映したことは、沖縄が抱き続けている苦悩を、より多くの皆さんに受け止めていただいたのではないかと思いました。アートの力を信じて、残る時間を描き続けたいと思います。ありがとうございました。
2014年11月
宮良瑛子
宮良瑛子プロフィール
福岡県出身・武蔵野美術学校卒
美術家平和会議会員・日本美術会会員
沖縄女流美術家協会顧問
沖縄平和美術展副委員長
著書:沖縄戦絵本数冊・「宮良瑛子作品集-沖縄」
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