日本を代表する現代画家、宮崎進(写真1)の回顧展が2014年神奈川県立近代美術館葉山館で開催された。この展覧会には1950年代からの宮崎の画業を語る上で重要な作品、約90点の絵画と10点の立体作品が出品され、I)原風景、II)忘れえぬ人々、III)花咲く大地、IV)立ちのぼる生命(いのち)と、スケッチブックや取材写真の並ぶ、V)創作の現場の5章で構成された。
最初に目を引くのが、加えて特別出品された展覧会場の入り口に立つ3mの塑像。この青色のオブジェは今回の展覧会のサブタイトルと同じ〈立ちのぼる生命(いのち)〉(写真2)と題され、今回の展覧会を象徴する作品と言える。
床から真っ直ぐに天井へと立ち上がる。一見樹木のようにも、また人のようにも見えてくる。またその変化していく途中の姿のようにも見えてくる。表面にはコバルトブルーの顔料を纏い、まさしく全生命が芽吹いていく姿に見える。英語タイトルの〈BRETH OF LIFE(生命のいぶき)〉のとおり、力強い生命力の賛美とも言えるし、反対にたとえば食虫植物が、食物連鎖の末にさまざまな動物の遺骸を、自らの糧とするような生命本来の持つ残酷さをも表現しているのかも知れない。これは、例えば宮崎の過去の忘れられない体験(中国戦線で九死に一生を得た体験やシベリアでの極限状況)の中で掴んだ「生命存在」の表裏を、ある種の覚悟を持って伝える一点と言えるだろう。
さて、第1室の「I)原風景」では、幼少期に育った山口県徳山市の記憶から戦争体験を経て、見世物芸人シリーズでの安井賞受賞前後の作品から、さらにドンゴロスという麻布のコラージュを使いながら変化してきた多技法の制作シリーズまでが展示されている。ここでは宮崎芸術の変遷を一気に辿る事ができる。展示室の中で目を引くのは〈冬の鳥〉だろう。鳥のような形態が見えるが、モノクロに近い色彩で抽象的に貼付けられている。これらドンゴロスの作品群はどんなに抽象的に作られていても具象画以上に具象的に見えてきてしまう不思議な抽象画なのである。宮崎の作品が大きく変化していくのは様々な説はあるが、僕は90年代半ばからだと思う。90年代、日本は全国で道路建設が進み、地方都市にも郊外化の波が押し寄せた。道路沿いにはショッピングモールやコンビニが建ち並ぶ。どこにでもあるような満ち足りた風景。しかし反対に、人間の存在は希薄化していくような時代。宮崎は、ともすれば軽薄なこの時代に抗うように、自身の残酷な記憶の風景を重ね取ることを抽象画で挑戦していたのかも知れない。〈冬の鳥〉はそんな時代に描かれた孤独な自身の巨大なポートレートでもあるとも言えるだろう。
続く第2室と第3室(1)の「II)忘れえぬ人々」と「III)花咲く大地」は、宮崎にとっては両義的な意味で創作の原点となっている「シベリアの記憶」を全面に出した部屋といえる。中でもとりわけ〈ラーゲリの壁(コムソモリスク第3分所)〉は印象的である。ラーゲリ(収容所)の壁は、繰り返し描かれてきた宮崎にとって重要なモチーフである。シベリアで4年にわたる抑留生活を続けた文字通り死と隣り合わせの負の記憶。ラーゲリの壁は視界を遮り、人の自由を奪い、世界を区切る象徴として描かれているのだ。あるいはこの壁は、死を常に身近に感じていた者とそうでないものとの間にある隔たりの象徴ともいえるだろう。逆に〈ナナエツの少女〉(立体作品)(写真3)はあたたかな記憶と言えるのかもしれない。ナナエツは「ナナイ族」とも呼ばれるシベリアの原住民族で、現在では、ロシアや中国、それぞれの国家に入り伝統的な生活は失われてきているが、宮崎が抑留時代に見かけたナナイ族はまだ昔ながらの狩猟生活を送っていたのだろう。あるインタビューで、「抑留当時、母子のナナエツに偶然遭遇し、様子を見ていると二人で丸太にまたがって川を自由に下って行った。」と語り、その時、自分の置かれた境遇に比べると、なんて自由な連中なのだと羨ましく感じたという。「花咲く大地」の〈花〉(写真4)は生命の象徴。しかしそこに使われる鮮血のような赤色は、中国戦線で流された知人や戦友たちが象徴する死のイメージでもあるだろう。あるいは生命誕生の時に流される産褥の血や体液といった生のイメージと言えるかも知れない。
第3室(2)の「IV)立ちのぼる生命(いのち)」に展示された〈泥土〉や〈地の骨〉などは前室の〈花〉とは対照的な色使いである。これらほとんど黒一色の作品に付けられると、「立ちのぼる生命(いのち)」という言葉は死のイメージを連想させる。特に〈地の骨〉などは、春になり固い凍土から人骨が露になった光景を連想させる。しかし不思議な安堵感に包まれる。それは作品が生命の環が繰り返し循環する事を暗示しているからかも知れない。地の骨として埋もれ、また立ちのぼる生命(いのち)として花咲く大地に豊穣に実り、またやがて地へと還る。そんな当たり前の自然の法則を、この展覧会は優しく厳しく僕に伝えてくれた。最後に僕がこの展覧会で一番惹かれながらも未だに咀嚼しきれていない作品がある。それは〈頭部〉(写真5)という作品である。真っ黒な塗料を塗られた木や鉄の塊によって宮崎が現代社会へ投げかけているメッセージとは何か。カタログには「圧倒的な物の量塊である《頭部》は、そうした人間の形を表現しているのみならず、それを越えた「物の存在」自体が放つ不思議な力を捉えた作品です。塊とそれが「存る」空間が作り出す緊張と静寂、それを感じることができるのも生きた人間だけです。いかなる破壊からも立ち上がる人間の強さ、それを厳しい荒涼たる大地から「立ちのぼる生命(いのち)」に仮託しているのです。」と解説されていた。
頭部の双眸(そうぼう)(=両の瞳 編集部注)を見ているうちに、もしかしたら、「どうして平静でいられるのか。この作品群は現代を生きる私たちの事を語っているのだ。」という宮崎のメッセージなのかも知れないとも思った。この展覧会自体の謎めいた結末。寄り添えそうで突き放されるこの感覚に、僕は惹かれながらも打ちのめされ、宮崎芸術のさらなる深淵に触れる事になるのである。(写真6)
<写真キャプション>
1. 宮崎進 展示室内にて 2. 〈立ちのぼる生命(いのち)〉 3. 〈ナナエツの少女〉背景に〈ラーゲリの壁(コムソモリスク第3文所)〉 4. 〈花〉×3点 5. 〈頭部〉×2点 6. 第2室で自作を見渡す宮崎進
1,2,3,6 著者撮影 © Tamotsu Shimizu 4,5 山本糾撮影 ©Tadasu Yamamoto
清水有(しみず たもつ) せんだいメディアテーク学芸員
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