折しも開業100年を記念する年にあたり、新装なった東京駅、その北口に新しい東京ステーションギャラリーがある。入口付近にはフォートリエの代表作であるあの「人質」が大きながらんどうの目で通行人を見ている。ガラス張りの瀟洒なつくりの入口に比し、展示会場は戦前の倉庫にでも迷い込んだような佇まいである。焼け焦げた木片がレンガ壁のあちこちに散見される。そして更にその作品群の重々しさはどうだろう。鑑賞者は完全にノックダウンさせられてしまう。
私のつたない知識からは想像をはるかに超えた深い世界がそこには拡がっていた。当時の生活者のつぶやき、戦争の犠牲者たちや人質たちのうめき声や叫びまでが壁に残響するのだ。気の弱い人だったら、この会場には10分もいたたまれないかもしれない。それほどフォートリエの作品はその時代のリアルを伝えている。
そしてその同一作家の手になるものとはとても思えない作風の大胆な転換も不可思議であった。
60年前後、美術雑誌などで「アンフォルメルの騎手」としてもてはやされた時代を記憶している私には自分より少し上の世代と勘違いしていたが、生年は1898年であり、父親より少し上の世代である事にまず驚いた。そして2つの世界大戦を体験し、そこでの過酷な体験を忘れることなく増幅させ、作品に結実させたのである。
まず最初の衝撃は1922年制作の「管理人の肖像」だ。これはドストエフスキーの小説に出てきそうな老婆を描いたものであるが、その顔や手の表情が超リアルでぞくっとさせられる。その後の市井の人達や娼婦を描いた連作は、セピア色の基調色が主流で、同時代のアバンギャルドの人たちとは一線を劃す暗さが漂う。自身も大戦中ガス中毒に冒され、入退院を経験したが,おかげで、軍を免役除隊し、1922年から1931年まで、サロン・ドートンヌに出品することが出来た。この間も作風は徐々に変化し、表面上の写実から茫洋とした内面の写実へと変貌していく。
第2次大戦中はゲシュタボに追われ、パリ郊外の精神科の診療所にかくまわれ、制作を続けた。ところが、隣にはフレーヌの監獄があり、連日人質が連行され、銃殺される。あまりに悲劇的な歴史の真実を目前に体験したフォートリエであったが、芸術家魂はこのことによって燃え上がったようである。数年前から探究してきた、新しい「厚塗り」の技法を全面解放し、制作に没頭する。
親しい友人であったフランシス・ボンジュは「フォートリエは今日の人間の残酷さを美へと転じている。」「人間が人間を拷問する。人間自身の手によって人間の肉体や顔がぐちゃぐちゃにされる――こういう堪え切れない考えには何かを対置しなければならなかった。恐怖を確認して、それに烙印を押し、永遠化しなければならなかった。」と語っている。フォートリエのやせて頬のこけた風貌はその悲劇を一身に担った殉教者のようでもある。
そして20世紀後半やっと、彼の作風は明るさを取り戻す。あの石膏を何層にも塗り重ねた上に刻印されたのは、死者の顔ではなく、自然の風貌である。きらめく陽光、地に芽吹く緑、そしてそれを潤す雨、等。だがそれらに混じって鉄格子のような太い線が現れたりすると、彼の戦時中の恐ろしいトラウマが甦ったのかと心配してしまう。あれほどの過酷体験はよほどの年月が経なければ洗い流せないのではないかと思われる。
ただ彼の年譜の中で、まったく絵画制作から離れている時期が数年ある。1934年から39年の5年間で、アルプス地方のティーニュにある、ホテル兼ナイトクラブの支配人になった時である。
最初はスキーのインストラクターも務めたようである。 一晩中ジャズのレコードをかけ続けたとのこと。しかし根っからの芸術家であるフォートリエには、絵の制作を断念することはできず、再び、ドイツ軍占領下のパリへ舞い戻った。はたしてこの間のフォートリエの心理はいかなるものかと、推測する。絵以外の道で糊口をしのげたことで、何か別の愉しみを見出しただろうか。自然の雄大さや豊かさに身を任せ、山を訪れる人々との一期一会を楽しみ演出すること。それもこれも、大戦下の社会では贅沢とされ、しらけたものになる。
でも「もう一度生き返ったら、あなたは何を描きたいですか? フォートリエさん」と訊ねてみたい。きっとあのアルプスの地での自然との交感、山、雲、雪、花、鳥、羊、鹿、牧場、等、平和でなければ愛せないものをいっぱい、いっぱい描いてほしかった。「人質」ではなく。
この展覧会は人間のもつ残酷さと悲しみをいやというほど見せつける。だが最後の部屋の「雨」という作品は本当に清らかな再生を思わせ、救われた。
そしてあちこちで紛争や災害が後を絶たない現在、この展覧会が首都圏の玄関口である東京駅の一角で開催された意義はかなり大きい事と思われる。
菱 千代子
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