「光のさなぎたち」と心の調べ

※美術運動141号(2014年3月発刊)

 

希望の光を感じさせる作家がいる。

 

 愛と命と光の彫刻家・安藤栄作氏である。

 彼は東日本大震災による津波と火災で家を失い、関西に移り住み、原発に対時する作品を生み出している。今年の関西平和美術展の新春講演会に依頼し、その人柄に感銘したこともあって、大阪の小さなギャラリーでの小品展と、埼玉での作品展にも足を運んだ。『原爆の図』の丸木美術館の「企画展」という面白味と、東京の知人の「森田隆一個展」、「ラファエロ展」、「ベーコン展」と興味深い展覧会が重なったこともあり、吸い寄せられるように東京に向かった。

 

フランシス・ベーコンは、若い頃に関心があったが近寄りがたい作家でもあった。

 NHK「日曜美術館」のベーコン展の紹介に出演した大江健三郎の言葉「分かりきったことをくどくどと説明したものは芸言術とはえない。言葉では言い表せないものの中に何かがある」「ベーコンの作品はどれもこころのさけびがある。僕も原発反対とさけんでいるが、大江さんの声は小さいと言われる。でも、小さくても自分なりにさけんでいるのだ」


 シュプレヒコールとは違うニュアンスに、「叫び」とは何かを知りたくて即座の決断となった。

原爆の図 丸木美術館
原爆の図 丸木美術館

  澄んだ青空の下、新緑に包まれて丸木美術館はたたずんでいた。平日のためか鑑賞者は私だ

けであった。順路として、二階の丸木位里(まるき・いり) ・俊( とし) 夫妻の「原爆の図」8部作から観る。焼け爛れた人の群れ、人声・叫び声は聞こえないが、会場にはうめきと轟音がなりわたっている。炎が燃えるなか、水を求めて彷徨う人々、顔はむくれ蛆がわき倒れる人の山。それでも、これは絵画なのであると思わせられる。塗り重ねた墨が、所々に入る色が美しい。報道写真ではない作者の想いなのだ。見え隠れする裸体に生命感があり、エロチックでさえあると感じるのは不謹慎なのだろうか。

 

 眼を凝らして居並ぶ群像を追うように観ていく。

 

 男が女が子供が一瞬にして燃え、炭となり、肉塊となり、骨と化して絶望が包み込む。悲しみと怒りが渦巻く。このキノコ雲の下での惨状は今も引き続いているのである。

 

 重い心で階下の展示室へ下りる.…祈りの灯篭流し・原爆は米軍捕虜収容所の仲間にも隔てはなかった蠢く蛆虫・肉をついばむ鴉の群れ・骨の山・・・原爆の図は全15部作にもなり、これでも

かと惨状は続く。しかし、先の8部作にくらべて緊張感にわずかな変化を感じる。より絵画的になっている。

 

 作品は第五福竜丸の被爆・アウシユビッツ・南京大虐殺・水俣病・三里塚闘争と拡がり、抵抗し闘う人々の姿が描かれ、怒り渦巻く作品群となっている。その怒りは観る者に迫ってくるのだが、初期の連作に感じたものと少し何かが違うと感じるのは仕方ないことなのか、二人は描かなければならなかった。

 

 惨状を経験した原爆の画家として、自らが・時代が・社会が描かせた。歴史の祈念として

残すべき作品なのである。そんな常設会場の間に企画展示室があり、安藤栄作展となる。

 

 入りロ壁面には絵本「あくしゅだ」の原画がある。木の精に導かれ、大地と海と空とあくしゅして最後に人との出会いがあり結びつく、震災を経た作家の想いが深い。原画は作家の直接の息

遣いに触れる思いがする。

 

 そして、「光のさなぎたち」の展示室に入る。

 

 ここには光が満ちている。正面壁面の10m程の白い紙いっばいのドローイングをバックに7点の彫刻が並んでいる。ドローイングは福島第一原発ということである。交差し走る線描はコンクリートと金属の建造物が、分子・原子となり崩壊し消滅しそうに見える。

 

 飛び散る放射線のなかで、6体の抱擁する男女像は、それぞれがひとつの塊となって結ばれている。それらは起こる苦難から互いを守るかのように小さな光となる.光は生きる力と希望、その輝きが世界に満ちることを祈っている.それら6体の中央には鳥が飛んでいる。空に向かう翼は天空に届くように、海に向かう翼は波と一体化するように、鳥は人と自然をつなげる希望の象徴なのだろう。それにしても、この部屋は明るい。天井からの自然光や白い壁面の所為だけではない。原爆の図が苦悩の交響曲だとすれば、ここにはヘンデルのオラトリオ「ハレルヤ」が響き渡り、祈りと願いと希望の歌声が聞こえる。

 

 「光のさなぎたち」は絵本「あくしゅだ」に継がる作品なのだ。原爆の投下と原発の事故を単純に比較するものではないし、時代も状況も違う中での作品であることは言うまでもない。被爆国日本が原発事故によって、その未来をどう築くのかという問いかけのように、丸木夫妻の仕事の延長線上に、現代を生きている作家のひとつの表現として安藤作品がある。重いテーマを持ち

ながら、今を生きる私たちに希望の調べとして感動と共感を呼ぶのと同じなのだろう。

沖縄の佐喜眞(さきま)美術館に丸木位里・俊の「沖縄戦の図」があり、会場で天満敦子のヴァイオリン曲が流れていて心が安らいだことを思い出した。

 

 様々な想いを抱えて美術館を出た。

 

 裏には川が流れ、新緑が萌え、美術館は自然に寄り添うように慎ましやかに建っている。しかし、このなかには数知れない命のざわめきが綴じ込まれているのだ。

 

 東京に戻り「森田隆一個展」会場のある銀座に向かう。彼は私より少し年長だが・機械工として永年町工場で働き・その想いを描いてきた作家である。私は親近感以上のものを感じている。

 

 アンデパンダン展や「地平展」で大作は観てきたが、小品は殆ど初めてである。町工場・機械・その周辺・関わる人々が、控えめな色彩と線で地塗りした画面に塗り込められる。色彩は、永年工員として染み込んだ鉄・サビ・油を思わせる。冷たく硬い金属が・何故か人肌がして優しく温かく美しい。その感覚は私にも共通して、仕事への同様の愛着を感じる。取り立てた物語も、特別な感情も、複雑な構成もない。

 

 しかし、画面にはしみじみとした情感があり、そこに暮らす人々の思いと日常が浮かびあがる。淡々とした日常を過ごせることの幸福感に心が温められる。自分も同じように町工場に生きながら、何故、こういう作品が描けないのだろうか。描くことの意味合いの違いなのだろうか、寡黙でいて人の心に染み込む作品が羨ましくもある。其々が其々にとって必要とする創作なのである。だからこそ面白いのだが。ここには、静かな調べが流れている。控えめで優しく、奏でられていることさえ忘れる。大江光の曲のように。

 

 翌朝、上野の国立西洋美術館へ「ラファエロ展」を観にいく。開館前で既に30分以上待つ長蛇の列。おかげで庭にあるロダンの彫刻を充分堪能できた。

 

 長蛇の観客はそのまま作品に群がり、覚悟はしていたものの遠目からの鑑賞となった。それでも「聖母子像」は優しく美しく、見るものに静かに語りかける。同年代に生きたミケランジェロの超人的なスケールと力強い人物像に惹かれるが、こうして静かに語りかける作品を前にすると、心の奥から染みだす安堵感に邪心も洗われる思いだ。

 

 そして、「無な女口 ラ・ムータ」の作品の前に。

 

 高貴でもなく、質素な服装、取り立てた美人でもないこの肖像に何故か惹かれる。ダ・ヴィンチの「モナリザ」に学んだと云われているが、ラファエロ作に親近感を抱く。ここにも三人の巨匠の生き様を見る。この会場には、紛れもなくグレゴリアン・チャントが響きわたっていた。

 

 さて、目当ての「フランシス・ベーコン展」へと国立近代美術館に移る。

 

 鑑賞者は多いが、ラファエロ展のように押し合う状態はない。せっかくの作品を前にしながら、他所見をして無駄話をする人はいない。観客は何かを掴み取ろうと、食い入るように見つめている。

 

 肉体は歪み叫ぶ作品群。会場には不協和音が鳴り響いている。観る者の感情を刺激し揺り動かし神経を逆撫でする。心地よい形を見つけた途端に裏切られる。歪んだ肉体は愚かな人間への

暗示なのか。作品は関連性があるようで無い。物語や意味合いは拒否される。

 

 怪物のような人物は大きな口を開けて叫んでいる。叫びには、状況や理由が見えない。叫びたいという衝動があるから叫んでいる。

 

 人物像は肉の塊や断片のようで、欲望のままに肉体に潜むエネルギーを掴み取ろうとするかに見える。不道徳、反社会的、同性愛、猥雑の言葉がうかぶが、何処か美しく、ジメジメせず清潔

感さえ感じる.道理や世間体でなく、叫びたいときには心のままに叫べと、呼びかけてくる。大江健三郎ではないが、小声であろうと、呟きであろうと、今、心の底から叫ばなくてはならない。表面的な仕事で誤魔化すな、色や形で取り繕ってはいないか、感情を解き放せと聞こえる。自分は常識人となってはいないか、状況だけを描いてはいないか、昂ぶった感情のまま会場を出た。

 

 短時間に時代も表現も違う作品を観て、総じて語ることなど出来ない。誰にでも個性や生き方がある。なにか大きな苦難、あるいは事態を越えたときに、それらが花を咲かせ実となるのだろう。

 

 実生活では日常的平穏を求め、創作では非日常を求める。この二重性が自分のなかでどう繋がるのか。自分はどんな旋律を奏でられるのか。はたして、歌いあげるような作品が創れている

だろうか。不協和音どころか雑音にしかなっていないのでは。

 

 自問自答で混沌とした想いのまま新幹線に乗る。

 やがて走行音がララバイとなって暫しの夢へと誘う。

 

 

坪井功次 つぼいこうじ(日本美術会・関西美術家平和会議)

 


全聾の作曲者として話題になった「佐村河内守」について、その作曲がすべてゴーストライターがいて、聾であることさえ疑惑が持たれています。曲自体は感動的で私も共感しましたが、だからこそ創作をする者として深く失望しています。

彼の偽装による様々な人への裏切りと社会に対する影響と責任を思えば大きな怒りを感じています。

 本文の序章として彼の曲を取り上げましたが、全て削除し書き替えました。