首藤教之 しゅとうのりゆき
少年時代と美術・戦争
いま「芸術と自由」という、重くかつ深い問題について考えるとき、僕には避けられない大きな条件がある。それは、「戦争の時代」とイコールで結ばれるあの少年時代、それを覆っている濃い灰色をした記憶の感覚である。それを抜きにしては考えることができない。そうでないと、問題はなにか観念的・図式的になり、リアリティーを失ってしまうのだ。ここではその感覚にこだわり、理解を求めてゆきたい。
自分にとって、「自由」「人権」という言葉の意味を知ったのは1945年の秋、終戦後しばらくしてからのことだった。そのことを聞いて、やがて、自分がそのような意識を持つことができる、それこそが、人間がもっとも生きがいを感じ得る状態らしいと感じた。それまでは「自由」といえば主として「自分勝手・利己的・反社会」というようなニュアンスで教えられていたので、こういう輝かしい考えは当初ほとんど理解を超えた世界だった。
暗い牢獄から急に眩しい光の中に押出されて立ち止まり、次の一歩をどう進めてよいか、晴れがましいためらいの只中にいる13歳。寸前まで本土に上陸してくるアメリカの戦車に特攻として爆薬を抱えて飛び込んでいくはずだった、くたびれた戦闘帽の少年だった。
その直前まで、少年がよく知っている言葉は、「国家」「国策」「愛国」「国防」など、「国」がつくものばかりだった。また、「神」というのもあった。神と言えば、それは「軍神」「神兵」「神風」などで、そんな言葉が歌詞に入っている軍歌もいつもどこかで聞こえていた。ただ、その勇ましさとは裏腹に昭和17~18年以後には現実の戦況は変っていった。ソロモン諸島での後退、山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死あたりから暗い悲壮感を拭えないものとなり、それは子供心にも一気に伝わり始めていたのだった。
戦争美術展に行った日
薄ら寒い空気の中、大名国民学校5年1組の生徒50余人が列を作って福岡市内の市電通りを川端の玉屋デパートで開催中の戦争美術展(正確な名称は記憶していない)へ向かっていた。僕もその中の一人だった。その道は、しばらく前には訪日したヒトラー・ユーゲントの車列を迎えてみんなで手に手に持った紙の日の丸の旗を振った道でもあった。 展覧会の会場は節電のためか、なにやら薄暗く、壁に大きな油絵が続くのを見たのだが、暗い雰囲気の外、作品の記憶はほとんど残っていない。その見学は、なにかの儀式のような感じのするものだった。
ナチス・ドイツを真似たという「国民学校」は教育の戦時体制を実現するため,「皇国民」の錬成を企図したが、その中で儀式・行事を重視し、天皇崇拝と軍国主義思想を「少国民」に注入しようとした。様々な戦争映画などとともに戦争美術展見学もその一環だったのだろう。美術家はそのための作品を用意させられたのだった。
軍部政権の国民意識操作は、その生活の隅々までを支配していた。新聞・雑誌・ラジオの内容のすべてを監視・指導し、隣組組織によって防空演習・食料の配給を徹底させ、また密告体制にもした。戦争の後半、記憶にあるのは大人たちのひそひそ話で、「○○さんの長男がアカの容疑で警察に連れていかれた」などというのを母たちが話しているのを耳にしたことがある。どこかで聞いた「日本軍が負けている」話を母などにしてみると、そんなことを大きな声で話してはいけない、と険しい表情になった。・・・一方では、兵隊は戦死するとき「お母さん」と叫んで死ぬのだという話も母から聞いたのだが。
不安・恐怖の中の美術家、作家
警戒警報・空襲警報の頻発が日常になるのを待つまでもなく、戦時のくらしは不安と恐怖がひしひし迫ってくるものだった。その中で、敵愾心をあおり、兵士や国民を励まし美化する絵ばかりを描くように強制される美術家たち、作家たちはどんな気持ちだったろうか。ナチス・ドイツによる「退廃美術展」に多くの作品を展示され侮辱を受けた表現主義の画家キルヒナーはそれに耐えられず自殺したが、日本でもそれに類するような出来事が目立たぬところで起こったかもしれない。
作家の志賀直哉が「ルソン島で取材に来ている画家にあったが、特攻隊の取材が一番つらいと言っていた。生きながら仏になったような若い隊員、泣きながら特攻機の風防を拭く整備員を見ているのはやりきれないそうだ」と当時語ったという。抒情画家として竹久夢二と並んで女性ファンの心を掴んで著名だった蕗谷虹児は軍当局から「柳腰の女の絵はよろしくない」と非難され、彼も他の作家ともども、もんぺ姿の防空訓練の女性などを描くようになった。そして彼はやがて神奈川県山北に疎開し、絵をやめて農村の生活に入っていったようだ。谷崎潤一郎は「細雪」を雑誌に連載中、中止を命令された。彼はそれに従ったが、執筆を続け、戦後、連載を再開した。
当時、多くの学者や芸術家が自分の本音を吐露する場を自らの日記にしか見いだせず、ひたすらそれに向かったという話はよく聞く。そして、自分の日記の置き場所を自分の家の中でも注意し、官憲の手に渡らぬようにと気にせねばならなかった。
海野十三のことなど
小説と言えば空想科学軍事小説、冒険軍事小説などで少年を戦争に憧れさせた作家たちや作品を思い出すし、忘れてはならないのだが、その小説には挿絵画家椛島勝一などの精密描写の海戦場面などがつきもので、見るものをわくわくさせたのだった。10~12歳頃の私は海野十三の小説を愛読していた。空想上ではあるがアメリカを思わせる大国の動く巨大基地の建設が話の中心で、それを爆破する秘密作戦のため作業員に扮して潜入するのは日本海軍の士官だった。
戦後、海野は自分が海軍報道班員だったこと、少年たちを戦争賛美に誘導したことを恥じて一家心中を決意するが友人に説得されて断念する。また彼は終戦直後の秋、「原子爆弾と地球防衛」と題する論文の中で「原子爆弾の実現したのを機会として全世界はお互いの間における一切の戦争を永久に終局としなければならぬ」と発言した。こういう事実も記憶にとどめたい。
最近「女性画家たちの戦争」(吉良智子)を読み、そこに原野を行進する戦車隊を描いた写実的な作品の写真があるのを見て一驚した。作者名は桂ゆき、現在の桂ユキ子だった。前衛的な切れ味の良い作品を作るこの人までもがこんな絵を描かざるを得なかった圧倒的な暗黒社会の異常さをあらためて思った。
戦時中のエピソードから何を学ぶか
以上、身辺にある資料から考えて来た。近来、戦争と美術についての論評が少なからずあることは知っているが、冒頭にあるようなこの問題へのこだわりから、それへの正面からの対応は保留し、別のアプローチを採った。藤田嗣治や横山大観の名がここに出てこないのはその理由による。
あの時代に,その各時期に、どんな作家がどんな態度でどんな作品を創ったか、創ろうとして中止したか、絡み合っていたはずの厭戦意識と反戦意識、描かれたもの、描かれ方、他者・社会への責任が生ずるとすればどこにどのように生ずるのか、見た側の感想、その多くのエピソードに注目したい。その隅々から学びたい。そうすれば、そのさまざまな人々の心の動きに身近さを感じ、「他人事」ならぬ自らの課題を具体的にリアルに思うことになるだろう。
「戦前」と言われるこの時代に
なぜ、あの戦争の時期の作家の作品はもとより、生き方の歴史に、物語に注目しなければならないか。それは、それらが、過ぎ去った過去の物語ではないからだ。そっくりの物語が、今、我々の周囲で進行し、新たな「戦前」の匂いが立ち込めようとしているからだ。
一昨年来、彫刻作家展、会田誠展などで現政権を批判した作品が撤去・改変を要求されるなどの事件が続発しているし、私は最近、神奈川県F市の市民ギャラリーが市民のグループ展のなかにあった憲法9条擁護を主張している作品に関して、今後こんな政治的な作品は出品しないこと、また「ギャラリー・トーク」を行わないことを要求し、グループがそれに従っていたことを知った。
美術にかかわるすべての個人、グループ・団体の共同の発言・行動がいま、期待される。ジャンル、表現の方法・傾向、地域・世代を超えて、表現の自由・反戦平和を希求するというこの一つの重大なテーマで共同の大きな動きを創りたい。かって、フランスなどで反ナチの統一戦線は「神を信じる者も・信じない者も」を唱えたが、それに比べれば美術の表現をめぐる相違などは小さいではないか。
昨年、美術評論家連盟が画期的なシンポジウム「美術と表現の自由」を開いて注目を集めたが、そのような動きが生まれたことが私たちの確信を大きくしている。戦争体験世代から現代の表現者であろうとする若い世代にまで、運動を広げたい。
表現の「自由」思想の深化を
なによりも自由を守るためには、何らかの社会的・政治的な抑圧に対しては抵抗が欠かせないものとなる。
上記のシンポジウムの記録を見ていて印象的だったのは発言者の中に「振り返ってみると表現の自由についてその意味をよく考えてこなかった」と率直に述べる人々がいたことだった。しかしそれは彼らだけのことでは無さそうであって、私たちも今再び探求を始めねばならないことのようだ。
一方、私が数十年の戦後期に常に忘れまいとしたのは、私達の内面における「自由」の課題だった。社会の変化・到達点のなかで何らかの新たな抑圧・干渉が起こりうるし、それは良心的な潮流の中でもあり得たからだった。さまざまな思い込みも、生じ得る。現在でも、自由を貫くには、権威を持った社会・芸術界の通念、常識を超える決意が必要となることは有り得る。
今、自由の課題は創作についてだけでなく、運動に関する発想についても言えよう。柔軟な思想を、社会そのもの全体の発展の中で生起する広範な意識・要求と連携して持ってゆきたい。創作要求は現在でも従来の「プロ・アマ」的意識を超えて広がり、自由な発表も常識となっているが、今後は全国組織中心でない各地域の草の根的運動とその対等な全国的ネットワーク、相互交流を柱とする運動に成長変化してゆくのではないだろうか。平和憲法を捨て軍事国家をめざす勢力との戦いの向こうに、文化・芸術活動のおおきな発展を展望したい。
首藤教之 しゅとうのりゆき
福岡生まれ。終戦時中学1年生。1950年代後半「現代芸術の会」「火の会」の活動に参加。1960年代、日本美術会に入会。以後日本アンデパンダン展、各地の平和美術展等に出品。グループ展多数。日本美術会前代表。
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