藤井建男 ふじいたけお (画家/ノー・ウォー横浜展事務局)
戦争の実相の重視を
アッツ島における玉砕の実際は、今日では資料もかなりあり明らかになっている。それによればアッツ島の日本軍(山崎安代守備隊長以下2667人)は1943年2月時点で船舶補給が断たれた。5月12日米軍が空と海からの猛爆撃支援を受けて上陸、大本営の作戦がグアム島など南東海方面の重視に移り、5月20日「アッツ島放棄」を決定。23日援軍を待つ守備隊に大本営から「玉砕命令」が下る。戦闘に参加できず意識あるものは手りゅう弾で自爆、意識ないものは軍医が注射か拳銃で始末。兵士は戦闘と疲労で幽鬼さながらの姿で米軍の降伏勧告を無視して突撃、米軍の一斉射撃で全員死亡した。戦死者2638人、捕虜29人。「玉砕」の建前から“捕虜は無し”となり生存者は非国民と扱われ、存在を無視された――である。
このアッツ島の酸鼻極まる日本軍の全滅を大本営は「玉砕」という言葉で美化してたたえ、以後国民に殉じることを求めたのである。この玉砕から3か月後、藤田嗣治は日本兵が一人も死んでいない「アッツ島玉砕」を描き上げ、「国民総力決戦美術展」に出品した。新聞、ラジオは一斉に絵の出来を褒めたたえ、「アッツ島決戦勇士顕彰国民歌」まで登場する。以後「玉砕」は南方地域で最後の「バンザイ突撃」として定着、サイパン島、ペリリュ―島、硫黄島、沖縄と続き、さらに全国民に押し付けられ敗戦の前夜まで“一億玉砕”が叫ばれたのである。
戦争の歴史画なら当然、この戦争の実相が説明されるべきと思うのだが、いまだに出版されている画集においても、戦争の姿が解説されているものはごく少ない。私は戦争画を描いた画家の戦争責任を問うべきだと言っているのではない。しかし、「戦争の中の美術」「美術の中の戦争」というコインの両面ははっきりさせなくてはならないと思う。戦争の実相を明らかにすることは、美術界の重鎮の優れた技量で描かれた戦争画であっても、その絵の存在のあり方を検証することになるからだ。
戦争の検証と反省の欠如
では、なぜ美術がこの時期、戦争と平和と言う本質的問題に強く打って出られないのか。なぜ、このようなことが今もって続いているのだろうか。この時期だからなお、問題を解き明かすことが重要に思えるのである。
私は戦争の壊滅的な敗北によって美術界全体が戦争の検証も反省にも踏み込めなかった敗戦直後の状況、加えて戦争画を描かされた画家、筆を振るった画家の多くが戦後すぐに美術画壇の“祖”のような存在になって甦ったことと無縁ではないと思っている。「今さら70年前を俎上に載せてどうなる」と言う声もあるだろう。「もはや画壇が美術をけん引する時代ではない」と言う声もある。そうなのだが、日本の美術界の多くが反戦・平和に距離を置くのは戦争直後からあの戦争の実相、戦争そのものに対する検証と反省(自己点検)を不十分にし続けてきたことと無関係ではないと思えてならないのだ。敗戦直後、確かに極東裁判において日本の戦争指導者は不十分ながら断罪されているが、国民に対する軍国主義が犯した罪はいまだに裁かれていない(戦争に反対した人間を弾圧した治安維持法が良い例)。言い換えれば戦争の検証と反省がなされていないままであることが大きな“澱”となって沈殿しているのではないかと思うのである。この事は日本全体にも言えることだが、文化の各ジャンルで見ると美術にその感を強くするのである。典型が先に述べた「戦争画」の扱いだ。この“澱”を取り去らなければ「戦争画」は意味不明なまま評価され続け、事あるごとに利用されることになるだろう。反面この“澱”を取り去る絶好の機会が眼前にあることも指摘したい。いま全国で広がる「憲法守れ」の運動である。今日、美術は自らが通過した犠牲と苦渋に満ちた戦争を検証、反省し、その視点で今の時代に積極的に発言することが求められている。その機会を逃がしてはならないと思っている。
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