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人格を表出する ―佐藤善勇個展―

山本良三  やまもとりょうぞう(日本美術会会員)

 佐藤善勇画集刊行記念展が2016年8月30日(火)から9月4日(日)、銀座アートホールで開催された。個展や画集からは佐藤善勇の人柄が滲み出た作品の数々。ひたすら描き続けた絵描き人生が見えてくる。 初期の作品、待合室・飯場小屋などの群像は鮮やかな色彩も多く使った重厚な作品だ。働く人や、生活する人々への暖かい思いがあり、その後の風景や、人が描かれていない風景にも一貫して感じられる。

 ライフワークでもある小樽風景は、わくわくして制作する作者の感動が、描きこんだ絵から伝わってくる。人の気配を感じ、暮らしが見える様だ。小樽の絵の暗く、重い空、その表現は詩情あふれる作品にするのと合わせ、色やタッチなど絵画面全体の調和を図るのに貢献しているのに感心する。それは若い頃、多彩な色使いを作品を会場で観たときに今まで感じた以上に見えて、納得する。

 1993年からヨーロッパ風景が加わってくる。当時、ヨーロッパ風景が好まれるブームに添った面もあろうが、佐藤善勇の絵はそれにとどまっていない。小樽や北国の風景につながる人々の生活への思いがある。画集にある「祭りの日(シエナ)」「白い町(モンテフリオ)」「南仏サン・ラファエルの朝」「『懐かしのリスボン』あの曲の街で」など見ていると、生命が萌え出す様な気迫がこもっている。小樽の重い空をふまえてのヨーロッパの空は宇宙につながる生動感があり、それは執拗に追求し続ける作者の蓄積の上に出てくる結晶だ。腱鞘炎になるまで絵筆とパレットを持ち続け、友人たちと酒を飲みかわし、芸術を語り合う絵描き人生の表現だ。しかし、この画集刊行で安堵してほしくない。北斎が90歳にあって、あと5年欲しいと云ったように、これを契機として、これからの佐藤善勇をも見たいものだ。

 電車に乗る前の席のほとんどの人、老いも若きもスマホで戯れている時代、自動運転だ、人工知能だと絵画もコンピューターや機械を使ったり、数百人の美学生や若手作家を動員した大規模な経営的制作も行われる時代だ。文明そのものに目を向けないと済まない今だ。

 コンピューターやデジタル応用美術の急変の始まりを、「トランジスターガール」などのはやり言葉の時代あたりからと見る識者もいる。しかし、生命体のプラスとマイナス、男と女などの単純な二進法的とも云える簡単な組み合わせから、光や波などの環境とあいまって、複雑な物に進化してきた基礎があるから今日のデジタル思考があると思う。人間的営為はますます大事になっている。直感にもとづく創作絵画なども。

 佐藤善勇の愚直とさえ思える熱心な探究の連続の上に、まだまだ新しい花が咲き加わることを期待したい。


「絵描きを志した頃と画集のこと」

佐藤善勇 さとうぜんゆう

 私に絵描き人生への道を歩ませた今でも忘れられない言葉がある。私は定時制高校(夜間)に通い、昼は弁護士一人、事務員一人の法律事務所に勤めていた。2年生の秋のある日、裁判を終えた先生は寛ぎながら若い時の苦労話を聞かせ、その最後に言った言葉、「佐藤君、君は将来何をやるつもりか」言葉は重く日夜悩んだ。そして残ったのが好きな絵を描くこと。貧困生活で定時制に通い、家や家族の事を考えるとこの道を歩むことは大変なこと。しかし絵を勉強したい気持ちは変わらず、5年後の1963年の春、22歳で上京した。一度決めたら貫こうとする津軽人のジョッパリ根性が自分にも流れていたのかと今思う。昼勤め、夜念願の美術研究所に通った。新宿美術研究所の夜の部は昼間働いている人達が集まった。

 研究所での裸婦制作は充実していたが、次第に物足りなさを覚え、研究所仲間の赤沢浩さんとスケッチの旅に出た。もっと社会に出て勉強し、人々や風景を描きたい。旅は頓挫したが、福岡で3ヶ月の飯場生活を体験した。そこで出会った人々との交流、多様な生き様、複雑な人生の一端を見せられ、若き日の貴重な宝物となった。

 高校在学から青森平和美術展に出品し、上京後は東京の平和展や日本アンデパンダン展に出品。‘76年からは主体展にも出品し、人間の息吹きと生活の匂いが滲む作品制作を心掛けてきた。

 本画集は上京後制作の郷里の港町や龍飛雪景、駅の待合室、酒場、飯場シリーズ、2007年出版画集「小樽」未掲載作品とその後の小樽作品。主テーマの小樽に続いて20年余り描き続けているヨーロッパ風景、その他に研究所時代の裸婦や人物像。尾道や高尾風景を含めた国内風景など広範囲の油彩作品を掲載した。上京して50年余描き続けてきた。それらの作品を一点一点見ながら掲載候補作品を決め、193余を厳選した。撮影・編集全般にわたり写真家川島保彦さんの力が大きかった。