坪井功次 つぼいこうじ (日本美術会会員・関西美術家平和会議)
2016年10月5日~23日 ギャラリーかもがわ(京都)
あの日から5年が過ぎた。被災の衝撃はもちろんだが、原子力発電の危険性が明らかになり、解決の糸口も見いだせないまま再稼働の動きさえある。わたしたちは生活の基盤から考え直す岐路に立たされている。それは人を想う創作者にとっても避けられない問題となった。その一人として、フクシマをテーマに描いて来た山下二美子さんの作品展が京都市内のギャラリーで開催された。震災翌年から今年までの「フクシマ」の大作5点が一堂に展示された。
彼女はそれまでも故郷で育まれた感性による赤と黒を基調とした作品、戦争の惨禍に想いをよせた作品、身近な人への鎮魂といえる作品を描いてきた。そして、関西に移り住んで身辺を題材にした作品が見られるようになった矢先、東日本大震災が起こり、その惨状に衝撃をうける。遠く離れた奈良に住む彼女に、ここまで創作に駆り立てたものは何だったろう。
会場は民家を改装したギャラリーで、入り組んだ感があるが展示もよく間近で鑑賞でき美術館とは違った趣がある。展示順ではないが大作を制作年で追って見る。
「氷輪ー風下の地」初めてこの作品に接したときは衝撃的で、誰もが生々しい記憶を抱えていた。4枚のパネルそれぞれが独立した作品のようでもあり、それらを交互に繰り返し見ている内に現場に立たされた錯覚に陥る。
「眠る村風下の地」一見、情緒的に見せて降る雪に放射能マークが紛れていることに気付かせる。前作よりこちらの方がある意味で衝撃を与える。
「氷輪・離郷」処理もままならない原発、汚染された地には住むことは出来ない。破壊した発電所全景に動物の頭骨などが重なり死の影が漂う。
「青い花」飛び散る浮遊物と崩壊する黒線、垣間見える命の残骸。にもかかわらず色彩は美しく、見入るうちに作品に埋没する身体を感じる。具体的なものが少ないことで観る側の内在する想いを引き出させる。
「誰が風を汚したのか」最新作で(未完)と記されている。大作はすべて銀箔を施しているが、本作では銀箔に描かれた白色の牛頭骨・彼岸花が反射により浮き沈みする。渦巻く浮遊物に黒い蝶や紙飛行機らしきもの、命あるものと無いものが舞い飛ぶ。色彩の無い世界が取り払われると、そこには無しか残らない。この作品には悲観や怒りがない。唯々悲しく涙も出ない
。 彼女の作品には死の影が漂う。それは湿っぽさがなく力ラッとして、それでいて冷たくはない。
会場には大作を含めて27点が並ぶ。入り口に「眠る子」9枚が徐々に色・形がおぼろになり最後は白紙になる。哀しさだけが残り何故か腹立たしい。逆に並べ替えれば希望に向かうのか、いや、それでも戻った画像の子はすでに・・・そんな想いを連想させるのは続いて展示された「関伽(仏前に供える水)」しかし、制作年を見ると震災翌年、フクシマに連なるのだろう。家屋の廃材をコラージュした「Y家の断片」も人の営みの残骸といえる。振り返れば、それまでにも人を悼む想いが描かれてきた。そして、対象となるのは必ず、子供だった。作家の内在するものを察するが、震災以後の作品はそれまでとは一線を画す。眼前の事実から出発し近作に至るほど内面の形象化に向かい、より美しさを増して観る者を魅了する。
彼女は安易な希望や癒しを描かない。現実を現実として受け止めたうえで自らの位置を決めている。自身が泣き崩れては人に伝える表現は出来ないだろう。「現実を直視すれば展望が見える」と言われるが、そこから希望や展望を見出すのは鑑賞者にゆだねられるのだろう。
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