はじめに
ウイリアム・ケントリッジ(1955年、南アフリカ・ヨハネスブルグ生まれ)といっても、知る人は多くないだろう。彼の木炭ドローイングによるアニメーション作品は、すでに20世紀末から世界各地で大きな注目を集めていたとはいえ、日本では断片的に触れる機会しかなく、その実像や真価を知ることはむずかしかった。私自身、1999年のヴェネツィア・ビエンナーレでその一端に触れていたとはいえ、駆け足の会場めぐりの中ではしかるべき評価にいたるにはほど遠く、散漫な印象しか得られぬままになっていた。先頃の日本初の個展、「ウイリアム・ケントリッジ:歩きながら歴史を考える——そしてドローイングは動き出した…」は、初期の素描や代表作「プロジェクションのための9つのドローイング」(1989〜2003)から、2008年の重要作品「俺は俺ではない、あの馬も俺のではない」にいたる充実した120点(うち映像作品19点)により構成されており、彼の芸術の真価を知ることのできる衝撃的なお披露目となった(09年から10年にかけて、京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、広島市現代美術館を巡回)。
ちなみに、ケントリッジは、2010年、第26回京都賞[思想・芸術部門]を受賞し、その秋に二度目の来日をして受賞記念の講演やワークショップへの出演を精力的に行なっている。彼は自己省察とその客観視に長けた作家といえよう。彼の文章や自作の映写を交えた講演は、彼の作家としての立ち位置や創作方法、各作品のはらむ内密な問題、さらには創造一般にかかわる原理的問題などの理解と考察を、大いに助けてくれるところがある。この小稿は、ケントリッジ展を見て大きな刺激を受け、問題意識を揺さぶられた私が、彼の発言を主な手がかりにしてその人と芸術について紹介を試み、まだ十分練られていない考察を多少つけ加えたものである。[注]ケントリッジの言葉は、ケントリッジ展図録(京都国立近代美術館発行、2009年9月)所収の彼の文章と講演記録、および第26回京都賞記念ワークショップ(国立京都国際会館、2010年11月13日)での講演と発言より引用・参照させていただいた。
受像と投影の「出会う場所」——リアリティ
ケントリッジが生まれ青年期を過ごしたのは、南アフリカの後期アパルトヘイト(人種隔離政策)の時代に当り、抑圧と弾圧の強化、抵抗と解放のたたかいのせめぎ合いが激化していた時期であった。彼が生まれた1955年は、黒人の強制退去、強制移住が始まった年である。彼がヨハネスブルグの大学に入学した1973年は、黒人労働者が賃上げと労働条件向上を求めてストライキを行なった年であり、これを契機に政治的抵抗運動に労働組合が結びつき重要な役割りを果たすことになる。1975年、在学中に彼が共同で設立したジャンクション・アヴェニュー劇団は、抵抗運動を支援する劇団であった。大学卒業後の1976〜78年、彼はヨハネスブルク美術財団で美術を学んでいるが、この財団は人種差別をしない美術学校とスタジオを運営していたところである。これらのことは、青年期におけるケントリッジの社会的・政治的な立場と関与をうかがわせる。
1993年、黒人がはじめて政治参加を認められ、翌年はじめて民主的選挙が実施されてネルソン・マンデラが大統領に就任するに至り、南アフリカは長年のアパルトヘイトから脱却した。しかし、積年の「病弊」からの回復はままならず、失業と貧困、都市再開発、エイズ対策等で国内の対立と政局混乱が続くことになる。このような南アフリカの過酷な歴史と社会的な矛盾や対立と混乱は、アパルトヘイトに与しない「白人」である彼をもとらえ、その作品に直接・間接に刻み込まれている。しかし、視覚の構造と働きにつよい関心を抱く彼においては、「すべての人は自分自身のプロジェクターをもつ」と語っているように、彼が否応なく目を背けることができなかった現実の反映は、たんなる「受信」(レセプション)としてではなく、彼のアニメのキャラクターとも交錯する内省や自己確認と絶えざる表現方法の革新・拡大による「投影」(プロジェクション)としてなされるのである。より正確を期して彼の言葉を引けば、彼は「[目を通して]私たちに入ってくる世界と私たちが外に向って投影する世界が出会う場所を探ること」に惹かれ続けて来たという。誤解を恐れずに言い換えれば、彼の創作活動は、「見ること」(視覚)における受像と投影の相矛盾する二つの世界が「出会う場所」にリアリティを探り続けて来た、といえるだろう(さらにいえば、彼の探求は視覚芸術における弁証法的な反映の探求と接点をもっていると見られる)。
「プロジェクションのための9つのドローイング」から
ケントリッジの仕事が美術界で認められまたその代表作ともなるのは、「プロジェクションのための9つのドローイング」(以下「プロジェクション」と略 記)のシリーズによってである。それは、ピンストライブの背広姿の主人公ソーホー・エクスタイン(ブルジョアジー)と幅主人公であるフェリックス・タイト ルバウム(ホーソーより若いインテリゲンチァ?)との対立や役柄の交錯や同一化を含んで展開されている。ここでまず注目されるのはアニメ制作では初歩的な 手描きによる独自の制作方法であろう。それは、普通のアニメ制作とは異なり、スクリプト(台本)やストリーボードなしで描かれた木炭のドローイングを部分 的に消し描き直す過程を繰り返す中で、ストリーが発見され、アイデアがふくらみ、それに呼応してドローイングがさらに描き改められながら進行するものであ る。描かれた素描を部分的に消し描き直して行く過程をコマ撮りする手間のかかるこの方法を、彼自身「原始時代の映画制作」と呼んでいる。だがそれは、消し 跡の残った粗雑とも未完性とも見える独自な表情を生むばかりではない。彼のその後の作品や制作方法に発展的につながる表現と展開の断続的な連続性(時間さ らには歴史の表現)、自由な流動性、開かれた発展性をも生んでいるのである。
「プロジェクション」の第1作《ヨハネスブルグ、パ リに次ぐ素晴らしい都市》(1989年完成)は、作者自身によってソーホー(やり手の不動産開発者)とフェリックス(不安に取りつかれた男)のヨハネスブ ルグの市街地と鉱山をめぐる対決の記録というストリーに収束させられている。ところがそれは、収束先のわからない「デモの群衆」と「掌の上の魚」という夢
のたった二場面を起点に展開されたものである。そしてここには、ケントリッジの仕事における中心的なテーマ、自己の乖離・分裂とその統合・アイデンティ ティへの問いがすでに現れているばかりでなく、これも彼の仕事に一貫するように、その問いの追求が自閉的に行なわれるのではなく、南アフリカで生起する同 時代の社会的・政治的な問題圏との関係においてなされているのである。
1994年、南アフリカで初の民主的選挙が実施され、アフ リカ民族会議(CAN)が63%の支持を獲得してマンデラが大統領に就任した。この年に完成した「プロジェクション」の第5作《流浪のフェリックス》につ いて、ケントリッジは、「南アフリカにおけるこの大きな変化と、自分自身の自問自答するような個人的問題の両方がミックスされている」と語っている。作品 をつぶさに見ると、女性(黒人)との距離を縮められないフェリックスと女性の無惨な死という成り行きに、国民的和解の楽観視できない困難さ、あるいはイン テリゲンチャないしリベラリズムの無力という苦さがにじみ出ているように感じられる。
1996年に完成した第6作《重大な傷/病 の歴史》は、重篤の病床にある男(ソーホー)が、(夢で)自動車事故に遭う話である。その中で加害の目撃者であった彼は、みずから黒人を轢いて加害者に なってしまう。この作ではソーホーとフェリックスの役柄は同一化していると見られるし、さらにソーホーはケントリッジ自身とも、南アフリカの国民自身とも
同一化していると解されよう。1996年といえば、アパルトヘイト時代の人権侵害について調査するため前年設置された真実和解委員会が、犠牲者と特赦希望 者からの事情聴取を公開で始めた年である。この第6作は、アパルトヘイト終焉直後の南アフリカの自国の歴史と自分たちの罪と責任を真剣に問う空気と状況へ の、かなり直接的な応答といえよう。
第9作《潮見表》(2003年完成)は、彼自身「非常に個人的なものになった」というが、それにとどまらず、ここでは南アフリカを揺さぶっていたエイズ問題への言及がともなっていることも見落とせない。
「包囲の状態にある芸術」と「失敗」からの発見
ところでケントリッジは、かつてアパルトヘイト下で、楽観主義でもニヒリズムでもない立場、また積極的な関与者でも無関心な傍観者でもない立場——この「狭い隙間」こそ、自分の制作の出発点であり領分であると記していた(1986年)。この立場はアパルトヘイト終焉後も維持されていると見られるが、それは、アパルトヘイト下の過酷な現実と容易に解決つきがたい対立と矛盾の存在が、南アフリカに生まれ育った良心的「白人」の芸術家に強いた選択であったと判断される。同時にこの選択は、彼自身が語っている通り、かつての「恩寵の状態にある芸術」や「希望の状態にある芸術」ではなく、マックス・ベックマンの絵画「死」のような、「危険に晒された魂たちにとっては指針となる」「包囲の状態にある芸術」への自己限定であった、と了解される。彼が絶えず自己の乖離と統合、アイデンティティの問題を、個人的問題としてばかりでなく政治的(国家的)問題としても中心的テーマとして追求し続けているのも、この「狭い隙間」からであろう。この中心的テーマの追求は、個人的・国民的な自己省察、個人史と現代史との間で重なり振幅する。
またたいへん興味深く、ケントリッジ理解にとって重要だと思われるのは、自身が「一連の失敗の積み重ね」と語る彼の個人史での有り様ないしスタンスが、芸術創造における制作方法、より根本的には創作原理に、そのまま転化したかのように照応していることであろう。
「一連の失敗の積み重ね」とは、ケントリッジが重い現代史の中であるべき自己発現を求めて試行錯誤と模索を繰り返していた「プロジェクション」にたどり着くまでの「迷走」の過程であろうが、必ずしもこの過程内のことだけに限られまい。大学で政治学とアフリカ学の学士号を取得したが法律家を断念、油彩画を学ぶがうまく行かずドローイングに転じ、さらに舞台芸術(俳優と脚本家)を志すが失敗、映画製作も断念せざるをえず、再びドローイングに戻り、やっと手描きドローイングによるアニメーション映像の制作にたどり着く。…だがこのアニメーション作品も、彼自身には当初「失敗」と見えた。粗雑とも見える消し跡が残ったままだからである。しかし消し跡の残存を肯定的に評価してくれた友人たち(他者゠鑑賞者による発見゠評価‼)によって、彼は自分の表現の独自性に開眼し、「結果」(それが失敗であろうとも)の中から新たな発見や可能性を引きだす術を学んだ。彼の手描きアニメにおける消し跡の残存という失敗は、気付くことができるなら時間表現の付与という成功をはらんでいたのだ。予測的・目的的な選択と遂行のずれや逸脱をともなった結果(失敗)から、予測しなかった可能性を発見し前進するという術、あるいは「事前に予測して考える知性」と事後的に「世界の意味を見出してゆく知性」の中間領域が重要だというケントリッジの考え方は、あるいは逆に、「プロジェクション」の「成功」や創造活動での試行錯誤から獲得されたものかもしれない。
「事後的な意味の発見と生産」のダイナミズム
描く→撮る→部分的に消して描き直す→撮る→…
そのドローイングとカメラの間での数えきれない往復歩行による反覆。それによって進行するケントリッジのアニメーション映像の制作は、「反覆と変容を通した事後的な意味の発見と生産」というべき原理において、選択→反覆→変容により形態(表象)が生まれるとするレプリケーション論(W.デイヴィス)への親近性を感じさせるが、今それについて論及する余裕はない。ここではケントリッジの制作原理における「反覆と変容を通した事後的な意味の発見と生産」について手短かに触れるにとどめよう。それは、
つくる(描く)→見る→意味を発見する(知る)→つくる→…
と図式化されようが、ここで注目されるのは、この中での「見る→発見する→」の過程を、ケントリッジが「視覚による先導のプロセス」と呼び、「見ること」(what we see)と「(見て)知ること」(what we
know)の間の「移行」こそが美術家や映画監督が扱う領域である、と語っていることである(1998年記。「(見て)知ること」は端的に「視ること」と言い換えることもできよう)。もちろん「視覚の先行」とはいえ、ここでも「つくること」(物的素材の加工)を前提にしてのことであろう。その前提に立って、まずそれは、「つくること」の芸術生産における部分性、未完結性を含意し、その意味生産における「見ること」、「(見て)知ること」——すなわち自他による鑑賞行為(さらには批評行為)の不可欠性と創造性——を明示しているものと解される。しかしそのような一般的な見解にとどまらずここで重要なのは、彼が重視するのは「移行」であり、しかも彼の創作活動は「見ること」から「発見すること」、「見て知ること」への「移行」、すなわち「事後的な意味の発見と生産」のダイナミズムを、制作過程そのものの中に自覚的かつ原理的に組み込んでいることであろう。このダイナミズムの制作過程への組み込みによって、制作そのものもより創造的な力動性を獲得する。彼の作品が強い訴求力をもつのは、そのことによって、人類史の原初的な形象とイメージの生成のダイナミズムにまで深く根を届かせているからではなかろうか。
またもう一つ重要なのは、彼の創作活動がジャンルの越境や諸ジャンル間の交流によって、そのダイナミズムを発展的に増幅していることであろう。ケントリッジの仕事は、アニメーション映像の制作内に固定されることなく(もちろんアニメ制作の内部においても)、病理診断画像、人形と影絵、映像記録などの他領域を取り込むことにより、たえず新しい表現言語や表現方法を発見し拡大してきたばかりでなく、音楽や演劇など他の表現環境との交流・混交によって、たえずその表現世界を革新・拡大してきた。そのことは、今回のケントリッジ展で映写・展示された作品に限っても、「ユビュ、真実を暴露する」(1997年完成)、「影の行進」(1999年完成)、「ゼーノの書記」(2002年完成)から、「俺は俺ではない、あの馬も俺のではない」(2008年完成)にいたるケントリッジ監督・制作の映像作品によって、つぶさに例証されるだろう。そしてこの中でも近年の重要作品として「俺は俺ではない、…」がとりわけ注目される。これは、彼の演出、アニメ制作、舞台美術により2010年の春、ニューヨーク・メトロポリタン・オペラにおいて初演されたショスタコーヴィッチのオペラ「鼻」(原作ゴーゴリ)に関連して生まれた作品で、8つのアニメーション映像が同一室内で同時に映写され、「バラバラな断片の集合」とも見える多元的・重層的な表現−映写形式をとっている。彼の「狭い隙間」に立つ「包囲の状態にある芸術」はたえずその表現世界を革新・拡大しながら、何をどう語ろうとしているのか。…しかし、与えられた紙数を大幅に越えてしまったいま、その興味深い探索は他日を期すほかない。
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