1963年9月美術集団「レアリスト」が結成されました。地域に根差した民主的美術運動の拠店として「創造と運動の車の両輪の基本精神」に始まった。創立 会員15名で全員20代の青年画家達でした。64年には第1回レアリスト展を、11月に第2回展を開催、中国現代版画展特陳と東京を中心に活動していた日 本現実派6人との出品交流を行い、シケイロス釈放署名運動。日本アンデパンダンへの集団出品などが一年間の活動で、この年8名が日本美術会へ集団加盟しま した。初めから日本美術会の活動方針を学び連携を持ちながら活動が始まりました。65年にはレアリスト主催で群馬平和美術展、66年には実行委員会を組織 し実行委員会主催の第1回群馬平和美術展開催、2010年には44回展を開催へと続いています。
美術集団「レアリスト」も第38回レアリスト美術展を2010年6月に開催。また、1987年より現代リアリズム展を開催、これはレアリストの活動を幅広く広げて行くために会員と公募による50人規模の展覧会です。この年以降レアリスト展と隔年で開催しています。この間の運動の面ではレアリストの活動精神を広げるために美術研究会を6回開催、第1回目が画家の吉井忠氏を講師に「ピカソを語る」。第2回目が松谷彊氏「グットーゾ研究」。第3回目が美術評論家坂崎乙郎氏「現代におけるリアリズムとは何か」。第4回目が画家麻生三郎氏「造形とは何か(麻生氏を囲んで)」。第5回目が哲学者の矢内原伊作氏「ある芸術家の生涯・ジャコメッティを語る」。第6回目が美術評論家の朝日晃氏「生きている画家・松本竣介とその時代」。それぞれ超一流の講師に薄い謝礼でおいでいただけ たのも地域に根差した美術の創造と運動と言う観点に立って活動していたからです。その精神と意義を各講師にお話して理解を得てきていただきました。各々100から120名参加で大変感銘を与えました。もう一つは高崎シティギャラリー建設運動を提起して皆さんに呼びかけ運動を展開しました。その運動が実り市民にとって理想的なギャラリーが1994年に建設された。第1展示室が壁面200メートル、第2展示室壁面100メートルと天井高8メートルで彫刻展示専用に設計されています。二階には5つの小さい展示室があります。また、いす席350の音楽ホールも併設されています。使用者のための無料駐車場30台分、地下駐車場は美術展見学者は使用料の半額になっています。以上概観です。1、美術家の提案を全部取り入れてから設計し建設したこと。2、使いやすく、展示作品がすてきに見えること。3、使用料がうんと安いこと。4、高崎市役所の隣で地の利が良く鑑賞者が非常に多いこと。16年たった現在でも95%の稼働率でいまでも美術家や市民に歓迎されています。
もう一つは自由美術協会群馬支部の活動です。今年で第46回展を開催しました。今は死亡や退会した人もいますが以前は日本美術会会員が6人でアンデパンダン展にも出品しています。現代リアリズム展や群馬平和美術展の活動でも連帯して地方の活動を盛り上げている友好団体です。
群馬の美術界は群馬県展を中心に自由美術の他、独立展、モダンアート展、二紀会展、創元会展、二科会展、国画会展、日展他支部が活動しています。他に群馬 女流美術展、また、各市に市民美術展があり日美会員は委員や審査員として指導的役割を果たしています。群馬県展は今年が61回展で11月に開催、現在日本
美術会会員が洋画二人のうち一人と、日本画、彫刻で副会長で工芸部門でいないだけです。常任委員、委員として複数務めています。アンデパンダン展出品者は 会員、また、応募者としてかかわっています。これは群馬の美術状況の歴史にもよります。県展には専門的な美術家と愛好家の90%以上が集まっており我々も
20代頃より参加しています。また、明治生まれの洋画家で代々在野団体の作家が多く福沢一郎、山口薫、鶴岡政男は東京に在住、県内にも8人が活躍していま した。皆さんがお弟子を育て、今はその弟子孫弟子が活躍しています。県展の先輩たちが会長、副会長として民主主義的に会を運営してきました。現在では良い
意見が通り少しずつ良い県展に改革され(革新自治体)の様になっています。現在では日本美術会会員が群馬県展をリードしています。これは長年の日美会員が 県展の中で地道な努力と優れた作品の出品によるものです。この様な中で多くの美術家の信頼を得て、アンデパンダン展にも県展を通じて出品者に働きかけ出品
を増やしています。群馬平和美術展にも県展の会長、副会長、役員が代々出品して充実した内容に盛り上げています。群馬に於ける日本美術会の方針と活動の勝 利です。
(日本美術会会員、自由美術協会会員、群馬美術協会副会長)
焼けあとからの文化を喜びとして
かっての大戦で焦土と化した沖縄は、27年間の米軍政の下、あらゆる権利と自由を奪われながらも、焼跡から拾い集めた文化財の保存、民謡や伝統芸能、美術工芸活動は非常に盛んで、人々に生きる喜びと自信をもたらしてきました。
ことに1949年、新聞社主催の美術展「沖縄」は、小学校の教室などを借りての不自由な会場ながら、毎年家族連れの客で列をなしていました。ですから美術館設立は県民の長年の願望であり、早くから設立要求運動は度々起きていました。
理想の基本構想を求めて
時は満ち、1994年美術文化関係者が大規模なシンポジュウムを開き、美術館構想をまとめ、県に提出、県はこれを受けて建設基本構想を発表、私たちは大いに期待し、度々研究会を持ち新しい時代の美術館の在り方について語り合ってきました。
しかし、県は1998年、財政難を理由に突然見送り、次に2003年地域整備総合事業費を活用するとした「県立博物館・美術館」併設構想が完成。私たちは、用地や財政上の問題で併設は認めるとしても、「博物館と美術館を一人の館長が兼務する、ことや、民間の指定管理業者の導入は認められない、館の名称をそれぞれ独立させよ。」と、県知事や県議会に公開質問書や要請書を提出、県担当部課長を呼んで公開意見交換会を開いたり、2006年には18の美術団体、2つのNPO,大学人などで「これでいいのか?県立の美術館 シンポジュウム」を大々的に開催するなど、精力的に活動、マスコミも座談会や識者の論文など応援してくれましたが、結果は何一つ変わりませんでした。
沖縄県立美術館の役割とこれから
2007年11月1日、沖縄県立博物館・美術館、開館。
那覇市天久(かって県民が解放させた米軍基地跡、今は商業都市)の真中に建つ、小規模ながら近代設備が整ったこの美術館を、どう生きたものにしていくかは私たち自らの問題でもあります。
開館記念展「沖縄文化の軌跡」は戦中戦後、今日まで、地元ゆかりの作品が総体的に展示され、深い感銘をよびました。
又、復帰後27年たっても植民地のような基地の島、沖縄の日常を捕らえた石川真生の写真展、昨年の「美術家達の南洋群島」は土方久功、杉浦佐助、儀間比呂志、三代の師弟関係を軸とし、戦前の南洋群島で活動した作家達の絵や木彫は人間の暖かい息づかいが感じられ、石川文洋の写真展「戦争と人間」は戦争の非道、生命の尊厳を訴え強烈でした。
現在開催中の比嘉康雄の写真展「母たちの神」(NHK日曜美術館放映)も琉球弧の古層、思想が検証できます。
又、今年10月の美術館主催のシンポジュウム「沖縄から女性美術を考える」は、沖縄女性史家、宮城晴美の講演、画家中島イソ子と私、司会崎山律子との鼎談、栃木県立美術館の小松禮子の「日本の女性画家の戦前戦後」、福岡アジア美術館のラワンチャイクン寿子の「アジア女性作家」は今後の方向を示唆するものとして好評でした。
こうしてみてきますと、沖縄地元に焦点を置きながら、他の都道府県、美術館との連携、アジア諸国との交流がいかに大切かがわかります。人と人、アートとアートの交流はアジアの平和に大きく貢献できると信じます。
沖縄は日本で唯一の亜熱帯県でありますし、東アジアの文化の十字路として、沖縄県立美術館の果す役割は想像以上に大きいと思います。
(敬称を略しました。)
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