展評:‘文化’資源としての〈炭鉱〉展(目黒区美術館/2009年11月4日〜12月27日)


この展覧会の主旨を同展図録の「ごあいさつ」から一部引用する。「本展は、マス・メディアによらない様々な視覚表現が、戦後炭鉱の様々な諸相を、いかなる眼差しで捉えてきたか、炭鉱とは何であったのかを再考する機会として企画されました。本展によって、まず、産炭地ごとの作家、制作された時代、さまざまなジャンルによって、炭鉱へのアプローチの多用さ((ママ))が、まず、明らかにされるでしょう。さらに、美術の表現について、自己言及的に、未知なる表現を模索するのではなく、炭鉱という主題を巡り、炭鉱を凝視し見えてきたものを自己の表現とする美術は、一般的な美術史とは異なった側面をうかがわせるでしょう。/さらに、その美術が、各産炭地の生活レベルに浸透し得て、各産炭地の生活や差異・類似を明らかにするならば、ローカリズムとされてきた炭鉱問題を、近代、世界の問題として思考する道筋を提示することになるかもしれません。」このような主旨の元、60作家約400点の作品が展示され、期間中の週末にはトークイヴェントが、東中野ポレポレ座においては関連映画が上映された。

私はこの展覧会を、少なくとも「1953年ライト・アップ展」(目黒区美術館/1996年6月8日~7月21日)に続く危険な展示であると明言する。その理由を、以下に簡潔に述べる。

先ず、言葉の定義が為されていない。「炭鉱」とは何かを示すキャプションが、会場のどこにも見受けられなかった。「炭鉱」とは日本独自のものなのか、アジアやヨーロッパにはないのか、世界の中で日本の炭鉱にはどのような特質があるのか、全く分からない。次に、時代も場所も恣意的であり、年譜も地図も会場に見当たらない。「戦後」とは日本の時代のことを指すのか。すると1945年以後「炭鉱」とは日本に限られたものだったのか、まだ終戦していない世界中の「炭鉱」はどのようになっていたのか、「炭鉱」と作家の出身地は同一なのか、何故炭鉱に赴かなければならなかったのか―等といった疑問が湧く。そして、絵画、デッサン、写真、ポスター、インスタレーションと多岐に亘る「ジャンル」の中に、当時、権威的な「美術の表現」を嫌って制作された作品はなかったのかと問いたい。更に問題なのは、ここに集められた「炭鉱という主題」を持つ作品群は、モチーフ(動機)とその結果(画面に表れるもの)のみに託されている。即ち、個々の作品が持つ【主張】が削ぎ落とされているのだ。「炭鉱」を賛美、否定、回顧、憧憬するモチーフとでは、その結果が同一であろうともその【主張】は大きく異なる。これは戦争を反対するというモチーフで描いたはずの作品が、後年に【戦争という主題】を持つ作品として戦争を賛美する展覧会に展示されることに等しい。「ライト・アップ展」も同様に作品の【主張】を無視し、議論になった展覧会であった。このような見解から、カタログ「ごあいさつ」にある主旨は、見事に【見せかけ】であることに気がつく。

何故、このような【見せかけ】に気がつかないのか。「炭鉱という主題」を持つ作品群が大規模に【美術館】で展示されるのは初の試みであるし、個々の詳細な研究を収めたカタログは後世に残るものだ。しかし【美術館】に展示されることによってそれまで認められなかった【モノ】が【美術品】に転換されるという事態は、【美術という権力】にすがることに他ならない。自らが描いたものが人の手に渡り大切にされる、誰が描いたものか分からないが好んで手に入れ大切にする。これが【美術品】でないのだろうか。そして、カタログのために展覧会が行なわれるのではなく、あくまで展覧会が行なわれたからこそカタログが存在するのである。総ての人々は【作品を見る場所】としての展覧会の為に、美術館に足を運ぶ。展覧会は知識人の爲だけにあるのではないのだ。展覧会が【美術という権力】によって見る者を扇動してはならない。私はこの展覧会に、大東亜戦争期に行なわれた様々な美術展を想起した。真に作品を愛するのであれば、その作品の背後に「人間」が居る展覧会でなければならないことを、この「‘文化’資源としての〈炭鉱〉展」を見て再確認した。(宮田徹也)