「シンポジウムin郡山現代を生きる作家として─意図と創作」のこと


小林繁和

2010年10月23・24日、日本美術会の、シンポジウムが郡山の磐梯熱海温泉で開かれた。これは、日本美術会が、理論・研究活動の一環として行ってきたものである。このシンポジウムは、「私たちにとってリアリティーとは」(2000年10月、蒲郡)、「創作と批評」(2002年10月、網代)、「戦争と美術」(2005年、東京)、「創作・杜会参加・平和・今平和を考える」(2007年、広島)と展開され、それらに連なっているものである。

 

 今回のシンポジウムの特色は、会場が東北・郡山という地で開かれたことである。宿泊者64人、当日参加者を含めると、総勢70人の参加をみることができた。福島からは10人、宮城から9人、秋田から1人、東北からは20人の参加があった。福島という地の利もあり、関東からの参加者が多くをしめた。パネラーには、地元福島の深谷滉さん、埼玉の高橋威足さん、栃木の星功さん、神奈川の木村勝明さん、東京在住の韓国人作家の李宣周さんに、自作の参考作品を映写しながらの、熱のこもった話が提供された。金沢の上野一郎さんには、「美術の始源」というテーマで講演をしていただいた。二日目は、前日の話題提供を受けながら、分散会が展開された。前回のシンポジウムでは、3分散会であったが、参加者の話す機会を多く保障しようということで、6分散会に増やしてみた。概ね、その意図は反映されたようであった。また解散後は、現地フィールドワークも、地元参加者の案内で行われ、好評であった。磐梯山の麓の「諸橋美術館」には約40人、「郡山市立美術館」には5人の参加があった。

 シンポジウムの司会進行を任せられた立場から、今回のシンポジウムのまとめを求められたが、その任は少々重く感じている。また、シンポジウムの論点を絞って、まとめることが出来にくいこともあり、あくまでも、私的な意見・感想になることを、お許しいただきたい。パネラーの方々に対しては、見当違いなものになっているかもしれないが、それも承知のうえで、述べてみたい。高橋さんは、彫刻を手がけている作家である。作品のテーマは杜会的なものや、身の周りから想を得たものだが、自身の感性に届いたものをテーマにしながら、熟した頃合をみて、造形化するというスタイルなのだろうか。作品全体から受ける印象は、柔らかな造形詩の趣がある。多くの人が共感する作品には、根底にヒューマニズムがある。が、いざ造形化するとなると、これほどむずかしいものはない。ともすると、押し付けになったり、説明的になったりしがちである。自然に人の気持ちに入っていくような作品にするには、工夫が必要である。その点、高橋さんの作品には、深刻なテーマでも、温もりのある詩が流れているように思う。
 稲作は、日本の文化に大きく関わっている。とくに、米生産が中心の東北はなおさらである。生活様式・祭事などなど。生活が、かつてとは大きく変化したとはいえ、今でも稲作の文化は生活の中に受け継がれている。食文化も欧米化しているとはいえ、今も主食としての地位を保っている。深谷さんは、生まれも育ちも福島ということもあって、とりわけ「米つくり」にこだわって、絵画造形を思考している作家である。たくさんの作品は見ていないのだが、「米つくり・稲作文化」を通しての、人々の営みや、稲作の歴史、稲作をとりまく環境のきびしさへの怒りなどを、抽象的な造形で表現しているように思われる。私は山形の農民詩人、真壁仁の詩を思い出す。詩集、『日本の農のアジア的様式について』は、スケール感のある詩で、日本の稲作を俯瞰したような内容であるが、深谷さんの絵も、私には、同じものを彷彿とさせる。

 星さんは、「アウシュヴィッツ」にこだわった作品を中心に制作している。私が星さんの作品に出会ったのは数年前のことだが、その造形に、どきっとしたことを、今でも覚えている。星さんの絵は、全体として「黒」を基調とした物が多い。その絵はとりわけ暗く、一瞬何が描いてあるのか解からないほどだった。近づいて見ると、たくさんの「めがね」が描いてあるのである。「アウシュヴィッツ」をテーマにしているのだなということは理解できた。このことを描くに至った経緯は省くが、自分の課題として取り組むには、重いテーマだけに、相当の覚悟がいる筈である。今、このテーマで描く事の意味を、あえて突きつけているようにも思える。

 今回、在日韓国人作家、李さんをパネラーにお願いした。来日して16年余になるという。材料も表現様式も、敢えて「こういうもので」ということはないという。何よりも、自由な精神を大きな核にしているようである。素材を選ぶにあたっては、環境問題を考慮に入れているようである。設置する場所を考えての造形はみられるものの、様式は自由な抽象表現である。平面作品を見ると、下地は明るめの灰色が多く、その上を、墨を思わせるような線が、自由に踊っているような作品になっている。韓国を意識した表現は、自身にはないようである。韓国だとか、日本にいるからだとか、制作の上では、とくに意識してないという。どんな場でも、一人の人間の作品として、自由に表現したいという。インターナショナルな、新しい時代に挑戦する作家なのかもしれない。木村さんは、インスタレーション作品を中心に表現している作家である。また韓国人作家との交流を積極的にすすめている作家でもある。平面作品からインスタレーション中心の制作活動に移行した経緯については、環境問題への関心と、関連しているようである。また、素材の中心も、自然素材による、「ネイチャーアート」へと発展している。まだまだ未知に近い領域であり、今後どう展開するのか注目したい。一方、木村さんは、過去の日本による、朝鮮への植民地支配の問題への関心も大きいようである。植民地支配の問題を、韓国の作家がとりあげている例は、幾つか知っているが、加害側である日本の作家による作品があるかどうか、私の記憶にはない。避けて通れない、課題でもある。講演者の上野さんからは「美術の始源」ということで、原始美術を通して、造形表現への、問題提起がなされた。世の中の状況の変化への対応と同時に、もう一つ、造形活動を、根源的なところから考えさせる内容であった。進行上の問題で、時間的に追われるようなことになり、もう少し突っ込んで聞きたい内容であったのは、私ばかりではなかったろう。こうした、限られた時間の中でのシンポジウムだけでは、かみ合った論議や、深まった論議になりにくいものだが、かなり重要な中身が、「断片的」にではあるが、提起されたり、論議されたりしたのではないだろうか。私なりに整理してみると

・原始美術と造形表現とのかかわり
・グローバル化の中での、創作の課題
・地域・周辺の課題と、グローバルな課題を、どうリンクさせるか
・過去の歴史問題と、造形化の課題
 →日本の過去の侵略にかかわる問題と造形化の問題
  過去の戦争を、今日の課題としてとらえ、どう造形化するか
・自由な表現と、造形上の課題
・ 新しい分野である、インスタレーションなどの領域をどう考えるか
 つらつら書いてみて思ったことなのだが、こうしたテーマで、他の美術界で語られることがあるのだろうか。身びいきで言うのではない。何れも、重要な、内容を含んでいるように思えるからである。が、今の大きな美術動向は、「市場原理」の中にあり、たいした関心事ではないのかもしれない。それはそれとして、今回のシンポジウムを通して出された課題は、私たちの立場から、継続的に、追求されなければならないだろう。(文責・小林繁和)